富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「旧約における神の言の力」 イザヤ書55章1~11節

2018-12-07 20:20:10 | キリスト教

                ↑ 第二イザヤ (40章~65章)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     待降節第2主日 2018年12月9日(日)   午後5時~5時50分 

        礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)イザヤ書55章1~11節(旧p.1152)

説  教   「旧約における神の言の力」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                          次週礼拝 12月16日(日) 午後5時~5時50分

                                             聖 書 ゼファニヤ書3章14~18節

                                             説教題   「先駆者」 

                                             讃美歌(21) 132 236 24 交読詩編85

              本日の聖書 イザヤ書55章1~11節

55:1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。
5今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる。イスラエルの聖なる神のゆえに。
6主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。
8わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。9天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
10雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。 11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

                                本日の説教

 イザヤ書は66章までありますが、年代が違う三人の預言者の書とされています。全体の表題は、「イザヤ書」という最初に活動した預言者イザヤの名がつけられています。イザヤ書の全体(66章)は恐らく、紀元前350年頃にいたってようやく完了したと考えられています。 

   最初のイザヤは、紀元前739~750年、北イスラエル王国がアッシリアの攻撃を受けて滅亡した時代、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。1章から39章までが、イザヤの預言です。

    第二イザヤ(仮称)は、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、イザヤから200年後、バビロン捕囚の末期から、捕囚解放、そしてエルサレム帰還にいたるまでの、紀元前546~538年、に活動した預言者です。40章から55章までが、第二イザヤの預言です。

   第三イザヤ(仮称)は、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(紀元前515年)直後まで、(539~441年)、活動した預言者です。56章から66章までが、第三イザヤの預言です。

   南王国ユダは、バビロニアによって攻撃され、紀元前587年に滅亡しました。王や住民の重立った者たちは、597年、586年、581年と三度にわたってバビロンへ捕え移されました(エレミヤ書52・28-30)。総数は4600人です。これがバビロン捕囚です。

   イスラエルの人々は異国の地で捕囚の民として屈辱と苦難をあじわいました。生活それ自体は、必ずしも悲惨ではなかったようですが、神の民としてのイスラエル民族にとって、国を失い、捕囚の民とされたことは、「主はわたしを見捨てられた」(49・14)のではないかという思いと、イスラエルの神に対して、バビロニアの神々が勝利したのではないかという疑問が生まれ、偶像礼拝へ走ろうとする者達もいました(44・9-17)。第二イザヤは、この捕囚の民の中にあって、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいたもうこと、主(ヤーウェ)なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。

    今日のイザヤ書55章は、第二イザヤの最後の締めくくりをなす重要な章です。預言者は神に代わって、イスラエルの人々を、無償で与えられる神の饗宴に招きます。それは「永遠の契約」への神の招きです。

   「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(55・1)

   バビロンに捕らわれているイスラエル人は、救いを求めてあたかも渇ける者のように、また飢える者のようです。「渇きを覚えている者は皆」という冒頭の語はそれを表しています。それゆえ、預言者は神に代わって「水のところに来るがよい」と呼びかけるのです。この「水」は必ずしも物資的な水そのものを意味するのでなく、霊的水であり、救いを意味しています。それゆえ「渇き」も肉体的なものでなく精神的なものです。

 バビロンの文化は盛んで華やかなものであったでしょう。この国に捕らわれていたイスラエル人は、必ずしもその自由を全く拘束されたものではなかったと言われています。エレミヤはかつて、彼らがバビロンで家を建て、子をもうけ、落ち着いた生活をするように励ます手紙を送っていますが(エレミヤ29章)、彼らは異国での捕囚に満足するはずはなかったでしょう。彼らは解放の日を切に待ち望んでいたことでしょう。

   水は近東の地にふんだんにあるものではありません。砂漠では金を出して買わなければなりません。その尊い水を金を払わないで口にしなさいと言うのです。神はそれを無償で与えるというのです。それのみではありません。「ぶどう酒と乳を得よ」といわれるのです。ぶどう酒と乳とは生命をさらに豊かにするものです。それは渇きを止め、飢えを満たすこと以上の賜物です。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(55・2)

 大部分の捕囚民はエレミヤのすすめに従って、バビロンの生活にすっかり同化し、物質的にも、精神的にも、生命の糧以外のものの獲得に憂き身をやつすようになってしまっていたと思われます。イスラエル人は愚かにも「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労」しています。彼らが労して得たものもその心を満たすことは不可能です。それは空しい労苦ではなかろうか。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」神の言葉を心より聞くことこそ「良い食べ物を食べ」「豊かさを楽しむ」道である。神の国はもちろん飲食、あるいは「娶(めと)ったり、嫁いだりすること」ではないが、結婚が神と民との契約の象徴となり得るように、飲食もまた神との交わりの手段として、象徴的な意味をもつのです。

   「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」(55・3)

    3節で預言者は今一度会衆に耳を傾けることが真に生きることになることを述べます。神に代わって預言者が「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と語りかけます。神の言を聞くことは、食べることよりもさらに重要な生命の道です。次に神自身が「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と民に語りかけます。「とこしえの契約」を結ぶとあるように、これは契約の永遠性を示します。エレミヤ書31章の新しい契約が、旧いシナイ契約の更新であったように、これはダビデの契約(サムエル記下7章16節、詩篇18・51、)の更新です。

  「見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる。イスラエルの聖なる神のゆえに。」(55・4-5)

  「見よ、かつてわたしは彼を立てて」は、過去のダビデと交わされた約束が未来のメシアによって実現することを言って。過去のダビデは政治的に諸国を支配するに至った王でした。しかし未来のメシアは霊的に全世界を統治する君です。それで、「彼を立てて諸国民への証人とし」と言われています。このメシアが神に代わて諸国民を招き、彼らはあなたのもとにあつまるでしょう。あなたの神である主が、イスラエルに与えられる永遠の契約による輝きのもとに。諸国民、あなたは知らなかった国に呼びかけ、それらの国々にも主の救済は波及することが預言されています。これはエルサレムのイザヤの幻でもありました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ書9・1、11・10)。

 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(55・6)

 ふたたび預言者が語り手となって、イスラエルに最後の神への復帰をすすめます。神に帰えることと神の赦しなしには、新シオンの市民権は与えられず、出バビロンも無意味だかです。時は縮まっている。その縮まる時に彼らは神の呼びかけを素直に聞き、本来の自己に立ち帰るべきです。

「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(55・7)

 「主を尋ねよ、呼び求めよ、帰れ」、いよいよ間近かに迫った終わりの時を前にして、預言者の切なる勧告がなされます。「神に立ち帰るならば」、先行する神の恵みに応えるために、代贖の義の迫りのゆえに、すでに宣せられている赦しを得るために、われわれは神に帰らねばなりません。主は「豊かに赦しを与えられるから」です。

  「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。」(55・8) 

   神さまと人間との距離は無限大に開いている。神の思い人の思い、神の道と人の道とまったく違うということがまずここに言われています。

  「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(55・9)

    神と人との隔たりは、あたかも天と地の隔たりの如くである。神は神であり、人は人である。そこに神の神聖、至高の位置があります。しかしそれは必ずしも神に審判のみを意味せずその憐憫を示している。神は無限の憐憫をもって人に心からの悔い改めを期待しておられる。人間の希望はそこに繋がれている。神と人とは無関係であるのではない。

「  雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。」(55・10)

   天地を結ぶものは雨や雪である。それは恵みの「雨」であり、憐れみの「雪」である。これによって地の渇きは潤され、自然は生命によみがえる。

  「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(55・11)

    そのように神と人とを連ねるものは神の「口から出る言葉」である。この言葉は審きの言葉ではなく、人を救う言葉である。しかも神の言葉はただ神の意思、感情、思想の表現に止まらない。それはその意味するところを必ず実現していく力をそれ自身の中に含んでいる。

   そして、12~13節では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。捕囚の民がエルサレムに帰還を赦されるのは、第一回目の捕囚の時から58年後です。ぺルシア王・キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)により、帰還が許されたのです。

  旧約聖書では「言葉」は理解と結びつくと共に、それ以上に行動と結びつく。ですから罪の赦しと救いの約束はただ神の約束に止まらず、必ずその約束の如くになる。具体的にいえば、捕囚のイスラエル人はバビロンより解放されて再び祖国に帰り、荒れ廃れた国を復興するに至るんである。それが神の救いの約束の具体的な成就として実現される。イスラエルの救いこそ、神の「望むこと」であり、「与えた使命」である。こうして神の約束はイスラエル人の解放として実現する。それは「むなしくはわたしのもとに戻らない」。すなわちその目的を達せずには終わらないのです。

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