富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの教えと和敬清寂」

2018-12-06 21:50:50 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403

   日本福音教団富谷教会、茶席松風亭にて

   第27回クリスマス茶会

          2018年12月8日(土)

   礼拝の部 12時~12時30分              

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 258(まきびとひつじを)

主の祈り 

新共同訳聖書 マタイによる福音書5章

 「1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

  メッセージ 「キリストの教えと和敬清寂」 辺見宗邦牧師

  イエス様が教えた山上の説教と、茶道の和敬清寂の精神と共通しているところがあり、イエス様の教えや聖書のことばはそれをさらに深め、実行可能とする働きをします。和敬清寂は、利休の茶道の精神(お茶の心)を要約したものです。

   和とは、お互いに心を開いて仲良くするということです。席中亭主と客が和合し、一体感を生ずるとき、充実した茶会になります。人と人との心の調和を大切にするので、 英語ではHarmonyと訳しています。

   和敬の敬とは、互いの思いやり、お互いに敬(うやま)いあうという意味です。人を敬い、自らを慎み、謙遜であることです。お互いが慎みあい、敬い合うことがなければ、どんな茶事や茶会でも自己満足で終わってしまいます。英語ではRespectと訳します。

   清寂の清とは、清(きよ)らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。英語ではPurityと訳します。

   清寂の寂とは、どんなときにも静かでなにものにも乱されることがない心を表しています。客は静かに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。軸を拝見しそこに書かれた語によって心を静め、香をきき花を愛で、釜の松風を聴く。そして感謝を込めてお茶をいただく。そうした心のゆとりの中に、静寂、質素、わびの美しさを楽しむのです。茶道はそのような心の平安を目指しています。Tranquility(平安、平静)と言う英語で寂を表します。精神安定剤をトランキライザーというのは、精神を落ち着かせる薬だからです。<寂>とは、乱されない平和な心です。

 にあたる聖書のことばは、「柔和」です。マタイ5・5に、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とあります。「柔和」という日本語は、どちらかというと弱々しい響きがありますが、ここで言われている「柔和」はそうではありません。イエス様は父なる神様の赦しを伴う愛によって、敵をも赦し、罪深い人間を救ってくださった方です。イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」って教えられました。「柔和な人々」とは、人との和を大切にする人達であり、愛に満ちた人のことです。「その人たちは地を受け継ぐ」とは、イエス・キリスとともに来ている神の支配する天地を継ぐ人とされることです。

 にあたる聖書のことばは、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ12・10)です。イエス様は、どんな人をも、差別なく、神にとって価高い者として愛され、尊ばれました。御自分を「柔和で謙遜な者」(マタイ11・29)と言っています。

 にあたる聖書のことばは、マタイ 5・8にある「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」です。「心の清い人々」とは、正しい良心をもち、悪意を全くいだかない者のことです。清い心は、ダビデ王が「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください」と罪を悔い、祈ったように、イエス様から聖霊を受けて清い心が与えられるのです。イエス様は、「その人たちは神を見る」と約束されました。イエス様に罪を赦され、霊の交わりを与えられている心の清い者には、顔と顔を合わせて見るという神との親しい交わりが約束されているのです(コリント一、13:12)。

 にあたる聖書のことばは、「平和(平安)な心」です。「キリストの平和あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3・12)とあります。マタイ5・9には「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。ここで言われている平和は政治的な平和ではなく、平和の神が人の罪を赦し、人と和解することです。それは、罪を容認したり、真理をあいまいにするものではなく、御子キリストの十字架による贖いによる罪の赦しであり、神の正義が貫かれています。イエスさまによるこの平和を受けた者が、その平和を、自分の周りの人々にもたらすように努力します。そのような人々が、ここでいう「平和をつくる者」です。

 <幸いである>とは一般的な幸運ではありません。<幸い>とは神と人とが正しい関係にあることであり、神の至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです。「その人たちは神の子と呼ばれる」とイエス様は言われています。すでにキリストを信じて、恵みによって神の子とされたものが、将来神の子と呼ばれるにふさわしい状態になることを言っています。

 茶道の和敬清寂の精神は、日常の生活においてもその実践を心がけることが求められます。イエス様の教えは、和敬清寂の精神をさらに深める教えではないでしょうか。その教えを実行できるのは、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3・13)とあるように、主イエスの赦しを受け、イエス様との交わりを与えられ、イエス様の愛を受けて、できることなのです。

 イエス様の愛に生きた七歳の少女を紹介いたします。名前は高橋順子(1959-1967)さんです。彼女は、讃美歌21の533番「どんなときでも」の作詞者です。順子さんは作詞当時、骨肉腫の患者として病床にありました。片足を切断する手術を四日後に控えたとき、ベットの上で書いた詞を、順子さんのピアノの先生でもあり、教会学校の先生でもあった冷泉アキさんが、讃美歌委員会に応募作品として送りました。その詞に曲がつき、こどもさんびか1に、亡くなる前の年の1966年に収録されました。そして、讃美歌21にも収録されたのです。順子さんは七年間の短い生涯を終えて、天に召されました。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5・3)と主イエスは言われました。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。順子さんは「心の貧しい人」でした。「どんなことがあっても」くじけない、平安な心(寂)、キリストの愛を受けていました。痛い、苦しい闘病生活で、くじけそうになる小さいからだの少女を励ましてくださったのは、イエス様の愛でした。少女、順子さんは、その身を持ってキリストの愛を証ししました。この少女の作詞した讃美歌が多くの人に歌われ、人々を励ます歌になっています。

  たとえ、希望が失われるような苦しい時にも、悲しい時にも、なおも主イエスの愛が私たちと共にあるなら、どんな場合にも、くじけることがないのです。このようなイエス様を迎える御降誕を感謝し、心から祝いたいと思います。祈 祷

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)                 

祝 祷                         

後 奏

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