富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの苦しみにあずかる喜び」 使徒言行録5章27~42節

2018-10-06 20:17:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第21主日  2018年10月7日(日)   午後5時~5時50分 

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 532(やすかれ、わがこころよ)

交読詩編   33(主に従う人よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)使徒言行録5章27~42節(p.222)

説  教 「キリストの苦しみにあずかる喜び」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 533(どんなときでも)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 10月14日(日) 午後5時~5時50分

                                        聖 書  ヘブライ人への手紙11章23~28節

                                        説教題    「信仰による生涯」

                                        讃美歌(21) 355 461 24 交読詩編26

           本日の聖書 使徒言行録5章27~42節

5:27彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」33これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。34ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、35それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。36以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。37その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。41それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、42毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

                 本日の説教

 5章17節から26節にかけては、使徒たちの逮捕が記されています。教会の敵対者たち(大祭司とその仲間のサドカイ派の人々)が皆立ちあがり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れました。その理由は4:2のようにイエスの復活ではなく、<ねたみに燃えて>いたからです。そのねたみは、使徒たちが民衆の間で病人を癒すなど、多くのしるしと、不思議な業を行ったことで、多くの男女が主を信じ、その数がますます増えていったからです。

 夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、復活の命に関する教えを残らず民衆に告げなさい」と言いました。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めました。

 一方、大祭司とその仲間は、最高法院を招集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けました。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいませんでした。神殿守衛長と祭司長たちは、使徒たちが境内にいることを知ると、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを捕まえて連れてきました。しかし、民衆の反感を買い、石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしませんでした。

 「彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。『あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。』」(5:27,28)

 大祭司が尋問しました。当時の大祭司はカヤパ(17-36年在位)です。4:6で「大祭司」といわれているアンナス(6-15年在位)は退位していましたが、依然として実権をにぎっていました。<あの名>とは、「イエスの名](4:18)です。イエスの名によって決して教えてはならないと厳しく命じておいたのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男イエスを十字架につけて殺した責任を我々に負わせようとしていると罪状を告発しました。

 「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

 <人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません>はソクラテスの弁明「(私は)あなたがたよりも、神に従うであろう」に近いことばになっています。4章19節では、ペトロとヨハネが、「神に従わないであなたがたにしたがうことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と弁明しています。

 「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(5:30,31)

 <木につけて殺した>は、十字架につけたことを言っています。神は、あなたがたが十字架につけたイエスを復活させられました。神は、<イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため>であり、この方を救い主として、神は御自分の右に上げられました。

「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(5:32)

 <この事実>」とは、イエスの復活と天に上げられた高挙を指します。<わたしたちはこの事実の証人である>と使徒たちは宣言しました。神は、神に従う人々に聖霊を与えられる。<聖霊も証ししておられる>とは、<会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる>(ルカ12:11-12)に基づいています。使徒たちだけではなく、神の聖霊も、この事実を証している、と答えたのです。

 「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ」(5:33-34)

 ペトロと使徒たちの証言を聞いた人々が<激しく怒り、使徒たちを殺そう>と考えました。ステファノの殉教のときも人々は<激しく怒り>(7:54)ました。殉教の寸前の状態になったのです。しかしここでは、ファリサイ派の<律法の教師>であるガマリエルの提案で、使徒たちは救われます。ガマリエルは、紀元25~50年頃、エルサレムで教えていた有名な律法学者であり、議員の一人でもありました。ガマリエルは、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、秘密会議にしたのです。

 「それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。」(5:35-36)

 ガマリエルの提案が始まります。まず<あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい>と述べます。その理由の一つは、テウダのユダヤ反乱の事件です。紀元一世紀に生きていた歴史家ヨセフスの「古代史」によると、テウダはユダヤの総督クスビウス・ファドゥス(紀元44-46年在位)の時代に預言者と自称し、命ずれば、ヨルダン河の川水を、一言で分かって、対岸への通路を拓いて見せると言って、ヨルダン河岸の群衆を扇動したが、多くの群衆はローマ総督の派遣した騎兵隊に殺され、彼も捕らえられて殺されました。その後は、<跡形もなく>平定された、とガマリエルは語りました。ルカはこの事件を<以前にも>と言って、ガマリエルの提案がなされている時点(30年代初期)以前の事件として、年代を間違えたようです。

 「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」(5:37)

 理由のもう一つの歴史的事件は、ガリラヤ人のユダの反乱です。ルカにとって<住民登録の時>は、イエス誕生の時となっているが(ルカ2:2)、この<住民登録>は紀元6年に行われています。ルカは、この紀元6年の反乱をテウダの乱の後においているので,これもまたルカの間違いです。

  ヨセフスの証言によれば、ガリラヤのユダはファリサイ派のサドクと組んで決起し、住民登録の拒否を民衆に訴え、反乱に駆り立てたが、ユダの反乱は鎮圧されました。ユダ自身の死についてはヨセフスは一言もふれていません。ガマリエルの証言が史実と一致しないのは、ルカの構成によるものと考えられます。ルカが80年代後半に使徒言行録を執筆しているので、30年代のガマリエルが、40年代のことを過去の出来事として、思い違いして語ることが出来たのでしょう。

「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(5:38-39a)

  そこで今、<あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい>とガマリエルは提案しました。<あの計画や行動が人間から出たものなら>自然消滅するし、<神から出たものであれば>、彼らを滅ぼすことはできないし、神に逆らう者となる、と比較して、解決の時の経過になかせるように訴えたのです。彼の意見は、あまりに性急な議決をしない、慎重な考慮を求めたのです。彼の発言は、使徒たちの<計画や行動>が実際に神から出たものであることを暗示しようとしています。

 「一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。」(5:39b-40)

 最高法院は彼の進言に従い、使徒たちを呼び入れ、治安を乱したかどで鞭で打ちます。議員たちが申命記25:3の規定に従って、使徒たちに「四十に一つ足りない鞭」を加えたのでしょう。イエスも同じ罰に耐えられました(ルカ22:63)。議員たち一同は、<イエスの名によって話してはならない>と使徒たちに命じ、釈放しました。

 「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」(5:41-42)

   釈放されたで使徒たちの振る舞いについて二つの報告がなされています。一つは、使徒たちは<イエスの名のために辱めを受ける>ことを喜びとして、最高法院から出て行ったことです。人の目には不名誉なことであっても、<イエスの名のために>苦しむことは、彼らには光栄でした。もう一つは、彼らは宣教することを止めなかったことです。原始教会の使徒たちは、<毎日>、<神殿の境内や家々>で、<メシアであるイエスを教え、かつ福音を告げ知らせることを止め>ませんでした。使徒たちは最高法院の禁令にもかかわらず、宣教を止めませんでした。

 使徒たちの反応は注目すべきものです。彼らは恐れず、また勇気を失ってはいません。すべての苦しみは耐え忍ぶべきものであったが、<イエスの名のため>の苦しみはーイエスのため、またイエスにならってゆくための苦しみーは感謝と喜びへの機会となったのです。

     苦難における喜びは新約聖書における確かな体験です。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ペトロ一、4:13)とあります。ヤコブの手紙1:2には、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」と試練や患難に耐えることが勧められています。わたしたしは聖霊の力を与えられて、主イエスの証人とされています。人間の力を頼みとせず、共にいてくださるイエス様と共に、苦しみをも喜び、福音を宣べ伝え、備えられた信仰生活を送りましょう。

「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。              イェスさまの、イェスさまの、愛をしんじて。                               どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。    イェスさまの、イェスさまの、愛があるから。」(讃美歌21.533番)

「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8:37)

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