富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天地創造の全能者と言い争う者」 ヨブ記38章1-18節

2018-10-25 13:30:34 | キリスト教

                 ↑ ウイリアム ブレークの「ヨブ記」の挿絵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  降誕節前第9主日  2018年10月28日(日)   午後5時~5時50分 

           礼   拝 順 序 

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編  148(ハレルヤ。天において主を賛美せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ヨブ記38章1-18節(旧p.826)

説  教 「天地創造の全能者と言い争う者」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 5 8(み言葉をください)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 11月4日(日) 午後5時~5時50分

             聖 書  創世記9章8~17節

             説教題   「保存の契約(ノア)」 

             讃美歌(21) 223 425 24 交読詩編1

    本日の聖書 ヨブ記38章1-18節

 38:1主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。2これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。3男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。4わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。5誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。6基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。 7そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。 8海は二つの扉を押し開いてほとばしり母の胎から溢れ出た。9わたしは密雲をその着物とし濃霧をその産着としてまとわせた。10しかし、わたしはそれに限界を定め二つの扉にかんぬきを付け 11「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。 12お前は一生に一度でも朝に命令し曙に役割を指示したことがあるか 13大地の縁をつかんで神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。14大地は粘土に型を押していくように姿を変えすべては装われて現れる。15しかし、悪者どもにはその光も拒まれ振り上げた腕は折られる。16お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。17死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。18お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。

       本日の説教

 「ヨブ記」は、旧約聖書の中で諸書に属し、「知恵文学」と呼ばれています。「律法書」や「預言書」は、神とイスラエルの民族の関係が基本となっており、主として神から人へ向かう傾向が強いのに対して、知恵文学では、個人が神と正面から向いあっており、徹底的に神に問いかけていく人間の姿が描かれています。それは神の啓示を、ただ機械的に受け入れるのでなく、自分の納得のいくまで疑い、問い、主体的に受けとめようとします。

 「ヨブ」という名前はヘブルで語では「イッヨーヴ」です。「イッヨーヴ」の動詞の「アーヤヴ」は「敵対する」「敵となる」という意味です。「ヨブ」は、神に「なぜ」と敵対して訴えているように思われる人物の名です。「ヨブ記」の主人公ヨブという名は、三人の正しい人物として、ノア、ダニエル、ヨブの名があげられています(エゼキエル14・14、20〔エゼキエルは紀元前593-573頃の預言者〕)。この信仰的義人とされたヨブという人物を、著者はモデルとして、なぜ義人が苦しむのかというテーマについて書いたと思われます。著者はユダヤ人ですが、名は不明です。イスラエル以外の知恵や宗教伝承も含みながら長い成立過程を経て出来上がっていた口伝を、バビロン捕囚期以後のペルシア時代、おそらく紀元前5世紀前半に、著者がヨブ記として編集し書いたと想定されています。次のような構成になっています。そのあらましを記しましょう。

  1ー2章 は序文(プロローグ)で、「散文」で書かれています。

1章「ウツの地にヨブと言う人がいた。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。」(1:1)  

 「ウツの地」とは、哀歌4章21節に「ウツの地に住むエドムの娘よ」とあることから、「ウツ」は死海の南東エドムの地にあると考えられ、知恵の国として知られていました。ヨブはイスラエルの地以外の東方に住んだ異邦人と考えられています。

 ヨブは七人の息子と三人の娘に恵まれ、豊富な資産を持つ東の国一番の大富豪でした。正しく生きながら、平安で幸福な人生を送っていました。ところがある日、天上の主の前に、神の使いたちが集まり、サタンも来ました。サタンはここでは神の使いの一人として神の会議にあずかっており、いわゆる悪魔ではありません。サタンは神の許可のもとに行動する者で、人間の罪を神に訴える任務を負っています。地上を巡回してきたサタンに主は言われました。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。……ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

  このサタンの疑惑による挑発で、神は、ヨブに試練を与えることをサタンに許しました。ヨブに次々と災難が襲いました。略奪隊による被害や二度も天災に遭い、財産も、家畜も、使用人たちも、さらには息子や娘たちまでも、すべてを失ってしまいました。すべてを失っても、ヨブは神を呪いませんでした。むしろヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:11)と言って、神を非難することもなく、罪を犯しませんでした。「そこに帰ろう」とは、創造者なる神に自己の生死を託そうという意味です。サタンは第一の賭けに敗れました。

 2章 またある日、主の前に神の使いたちが集まりました。主はサタンに言われました。「お前は理由もなく、わたしを唆(そそのか)してかれを破滅させようとしたが、かれはどこまでも無垢だ。」サタンは答えました。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなた呪うにちがいありません。」

  主はサタンに、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、彼の命だけは奪うな。」と言って、試練を与えることを許しました。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせました。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしって苦しみに耐えました。

  彼の妻は、夫のあわれな姿を見るにしのびなく、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と告げました。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と妻をたしなめました。 <不幸をいただこう>とは、ヨブが全財産と息子、娘たち、自分の健康まで失うという不幸を神から受け入れることを言っています。この言葉は、苦難に対するヨブの信仰告白です。

 「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。」(2:11)

   「テマン人エリファズ」の<テマン>は、エドムにあった町。「シュア人ビルダド」の<シュア>は、エドムに近い北アラビアにあった町。「ナアマ人ツォファル」の<ナアマ>は、北アラビアにあった町と思われます。彼らは遠くからヨブを見ると見分けられないほどの姿になっていたので、しばらく茫然とし、嘆きの声をあげました。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできませんでした。

 

  「唇をもって罪を犯すことをしなかった(2:10)」ヨブですが、彼の心には、神が「ゆえなく」災いを下されたのではないかという疑いが、決して起こらなかったとは言えません。いやむしろ、この疑い、この疑問こそが長いヨブ記の主要部の中心的な問いであり、課題でした。

3章―42章6節 主要部をなす本編です。ヨブ記の中心部分を構成し、「詩文」で書かれています。大きく三つの部分に分かれます。

第一部(3章ー31章

 3章 7日間経過後に、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪います。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生れてすぐに息絶えなかったのか」、と。

 エリファズ、ビルダト、ツォファルの三人とヨブの主張は、一回目は4:1ー14:22、二回目は15:1-21:14、三回目は22:1-28:28まで、三度も繰り替えされます。

 4章ー31章 ヨブが死を願う独白を始めたことから、三人の友人たちは、次々にヨブを説得します。最初にエリファズが話し始めました。「人は神より正しくありえようか」(4:17)と言い、すべての人には罪があると、彼は一つの事実として言い、それゆえ神の懲罰に対して叫びを上げるヨブは誤っていると、ヨブの罪をほのめかします。だが、罪を犯した覚えのないヨブの挑戦的な態度が増していくと、無遠慮なツォファルは「神があなたの罪の一部を見逃していてくださった」(11:6)とあからさまに言います。ついにエリファズまで「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(22:5)と決めつけます。

 これらの当てつけや告発に対して、ヨブはますます熱を込めて彼の無実を主張します。「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。」(27:5)

 13章で、ヨブは友人たちを批判し、「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」と言います。「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください」と神に訴えます。16章では「天にはわたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)と、仲保者キリストを仰ぎ望むことばがあります。19章では「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(19:26)と仰ぎ見ます。ヨブの立場に立って、彼の義や潔白を証明し、弁護してくれる者を求めているのです。ヨブは塵である自分を贖う方の存在を予告し、因果応報と異なる世界観の存在を宣告します。

 ヨブは、「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ちくだくのか。侮辱はこれで十分だ。」(19:2-3)と言い、「憐れんでくれ、憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないのか。」(19:21)と訴えます。ヨブが友人の求めたのは、同情と憐れみであって、講義やお説教ではありません。ヨブとその友人たちとの議論は決着のつかないまま終わります。

 ヨブは再び嘆きの独白を始めます(29章1節~31章40節)。ヨブは神を否定してはいません。ヨブにとっての絶望は、近くにいたもう神が、今や遠くにおられ、彼に対して沈黙を続け、み顔を隠しておられることです。ヨブが苦しみの中で格闘しているのは、生ける神との出会いであり、神ご自身の声を聞くことにありました。友人たちをはるかに越えて神を愛した者がヨブでした。

 第二部(32章ー37章)もう一人の友人エリフが現れ、ヨブと三人の友人に語り始めます(32章)。エリフは「ブズ出身で、ラム族バラクエルの子」です。<ブズ>は地名で、アラビアの地方出身の人であると思われます。<エリフ>という名は、「彼はエル(神)」という意味で、神への信仰を表明する崇高な名前です。このエリフという若者はヨブに対しても、ヨブに反論できない三人に対しても怒り、「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」(33:13)と語り、ヨブの神への問いかけは高ぶりとして非難するのです。エリフのヨブに対する攻撃には、信仰者同志の深い同情に欠けています。エリフもヨブに対して、神の審(さば)きを語るのです(35章)。エリフの語るところは教理的に間違ってはいないが、しかし、ヨブを納得させるものでもありません。今、神に呼び求めても答えられず、神との交わりを断たれたのではないかと苦悶するヨブに対して、彼は一方的に彼の神観を陳述しています。最後に神観と教理に精通しているエリフの主張までが、ヨブを苦しめました。

 第三部(38章ー42章6節

 38章の1節から18節までは、今日の聖書の箇所です。神は今まで沈黙を続けていましたが、問い続けるヨブを、無視していたわけではありません。今、その全能の力と愛をもってヨブの前に現れます。主は嵐の中からヨブに答えて仰せになります。<嵐>は、神の顕現にともなう現象です。神は激しさをもって、ヨブの前に立ったのです。 「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」<経綸>とは、神の計画とその実現の御業をまとめて言う言葉です。これまで、「なぜですか」と神に問い続けたヨブは、逆に神から問われるものとなり、ヨブの側も、腰に帯し覚悟して、神の前に自らの全存在をかけて立つことを求められたのです。

 神は天とともに地を造られ、その基を据えた方です。神は、ヨブに向かって、天と地の創造の時、どこにいたのか、それに参与したかと問われるのです。もし知っているなら言え、とせまります。土台をすえる作業が語られます。<隅の親石>は家を建築する時、敷地の四隅を掘り、壁が直角に交わる隅を支える石のことです。神は自分の造った世界を肯定しており、天使たちも喜びの声をあげているのです。

 母なる大地である奥底からあふれでた大水が扉をもってせき止められて海となったことが語られています。海の創造が嬰児の出産にたとえられます。神は水に限界を定め、かんぬきと扉とを設けると言います。

 太陽は一定の場所から出て、一定の道を通り、一定の所に沈むので、その最初の出発点である「夜開け」、曙にその場所を知らせることが大切です。神はここでもヨブに生まれてから一度でも曙にその場所を知らせたことがあるかと問うのです。

 混沌とした世界に朝の光が段々と強くさしてきて、野も山もはっきりした形をとり、しかも衣のようにきれいな色に染まります。裁判は朝、行われ、悪人は光を奪われ、力を誇り高姿勢な腕は折られるといいます。

 ヨブは「海の源」「淵の底」まで行ったことがあるかとヨブは問われます。

 「死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。」<死の門>、<闇の門>は海の底にあると考えられています。大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか、とヨブは問われます。

  38章19節―39章 光や暗闇は、朝や夜に地の果てからのぞむと考えられていました。光の方向、暗黒の住みかはどこか、と主はヨブに問います。神は、天地創造の業一つ一つを取り上げ、ヨブに向かって、すべてを知っているのか、と問うたのです。ヨブの知らない、自然のこと、天体のことの、一つ一つにも神の深いみ旨が及んでおり、すべては創造者である神につながっています。そしてこれらのことは、人間中心にものごとを見ようとする立場に対して、自分を離れて物を見ることの必要性を教えているように思われます。主は仰せになりました。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(40:1-2)神に問うてきた者が今や神に問われる者となったのです。人は「神に真剣に問う者は神に問われる者になる」という真理に出会うのです。人は神からの問いかけによって初めて自らを知り、自らの位置と意味を知るに至るのです。自己中心の世界に生きていた者が、神中心の世界に生きる者に造り変えられるのです。ここに生ける神との交わりが成立するのです。

 40章1-5節 ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました」と詫び、「もう主張しません」と誓います。ヨブにとって主が直接答えられたことは何にも勝る大きな喜びでした。ヨブはこの主の前にもはや返す言葉はありませんでした。しかしヨブはまだ悔い改めにまで至っていません。

 40章6-41章 主は再び語ります。「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」神は、創造のはじめに神と戦って神に征服された混沌の怪獣、ベヘモット(河馬)とレビヤタン(わに)という怪獣について語られました。その混沌の力に対してヨブが全く無力であることを示しました。神のみが混沌の象徴である怪獣の力に打ち勝ち、治めたます。創造者である神は無と混沌の世界に秩序を与えるのみならず、レビヤタンも神の愛の対象とされているのです。神の支配の外にある虚無や混沌はないといことが言われています。「お前を造ったわたしはこの獣をも造った」(40:15)と主は言われました。

  神のみが混沌の怪獣レビヤタンの力に打ち勝ち、御手のうちに治められます。レビヤタンのごとき混沌にもがき、苦痛に耐えているヨブにとって、ヨブの苦難は、レビヤタンの存在のようなものです。たとえヨブにとって苦難の意味は分からなくても、ヨブも神の愛とユ―モアの対象であることが、ヨブの心に届く語りかけでした。

 42章1-6節 ヨブは主に答えて言いました。「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました、あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」

 ヨブが経験した「神を見た」経験は、ヨブをして創造者である神の絶対性と被造物である人間の卑小さを自覚させました。ヨブは主の語りかけを聞いただけでしたが、彼は「あなたを見ました」と答えています。直訳すると「私の目はあなたを見た」となりますが、「目」は、へブル語ではその人自身を意味します。主ご自身のヨブに対する語りかけによって、ヨブ自身が主の語られることを「理解した」ということを意味します。ヨブは生ける神の語られるのを聞いて、神を怖れ信じたのです。神が生ける神であるゆえに信じたのです。人は何かの利益が伴っているので信仰するのではないのです。「災い」と「幸せ」を越えて、ひたすら神を礼拝し、より頼むことが、真実の礼拝です。

 42章7節-16節 結び(エピローグ)です。「散文」で書かれています。

 主は、エリファズに仰せになりました。「わたしはお前とお前に二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」と言い、三人に雄牛と雄羊を七頭、自分のためにいけにえとしてささげよと命じました。友人三人は主が言われたことを実行しました。ヨブは彼らのために祈りました。主はヨブの祈りを受け入れて、ヨブを元の境遇に戻し、さらに財産も二倍にされた外に、娘たちも与えられました。彼は新たなる祝福を得たのです。ヨブは、以前にもまして、繁栄と幸福を得ます。ヨブは長寿を保ち、老いて死にました。

 ヨブの友人たちの説く、正しい行為をする人がその行為の良い報いを受け取るという応報の教理からは、苦難にある者が何がしかの罪を犯したに違いない、との裁きが生まれます。ヨブはこの応報に教理によっては説明しきれない苦難の現実を訴え、ヨブはその全存在をかけて直接神に問い続けました。問い続けることなしには神と直面し、神の声を聞くことはなかったでしょう。「どうか、全能者がわたしに答えられるように」(31:35)のヨブの呼びかけに対して、主は「嵐の中からヨブに答え」(38:1、40:6)られたのです。神は苦難の中にあるヨブを見捨てられたのではなく、その全能の力と愛をもってヨブの前に立ち現れたのです。ヨブは神と出会うことによって、自分の無知を悟り、苦難を神の給う苦難として受けとめることができました。ヨブは被造物のひとつに過ぎないのに、知らず知らずのうちに自己を創造世界の中心に置き、全てを自分中心に見、神をも批判の対象にしていましたが、そのヨブの思い上がりをは砕かれたのです。

 ヨブが苦難を受けて失ったのは神との友好的な交わりでした。ひとたび神が変わらざる彼への愛を保証すれば、彼にはそれ以上に何もいりませんでした。ヨブは自分の目で神を仰ぎ見ることができたのです。それで十分でした。

 ヨブ記は、なぜ義人が苦しむのかという人間の問いかけに対する一つの解答です。唯一の解答でも、最後の解答でもありません。人間の罪とその運命をめぐる重大な問題は答えられないままになっています。苦難の意味は、罪のない御子の十字架と復活、そして昇天による救いにあずかって、明らかにされることになります。ヨブが仰ぎ見た「天上の弁護者・執成す方」(16:19-20)、地上の「塵に立つ」、罪より「贖う方」(19:26)が御子キリストの来臨による十字架と復活・昇天によって、現実のものとなったのです。「わたしたちすべてのために、御子さえ惜しまず死に渡された方」である神と「神の右に座ってわたしたちのために執成してくださる」(ローマ8:32-34)キリストの愛は、どんな苦難にも勝利させてくださるのです。

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