富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 ローマの信徒への手紙8章31~39節

2018-05-08 02:19:24 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                                        聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  復活節第7主日 2018年5月13日(日) 午後0時40分~1時20分

  (仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝) 

     礼 拝 順 序

                司会 野崎 光男兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編  115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙8章31~39節(p.285)

説  教  「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

       合同礼拝について

日本キリスト教団仙台青葉荘教会の壮年会の皆様は、毎年5月第二主日の昼頃から、富谷教会支援のために、富谷教会で合同礼拝をしてくださいます。6名の方が来られます。礼拝の司会も担当されます。富谷教会の方も6名が参加します。礼拝後は、壮年会で用意して下さる弁当をいただきます。昼食後は、茶室で抹茶の接待をし、懇談の時を過ごします。終了は3時頃の予定です。

            次週礼拝 5月20日(日) 午後5時~5時50分

            聖霊降臨日礼拝

            聖書 使徒言行録2章1~11節

            説教題「聖霊の賜物」

            讃美歌(21) 342 529 24 交読詩編122篇

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章31~39節

 8:31では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

      本日の説教

 昨年、遠藤周作の小説『沈黙』が、イタリア系アメリカ人のスコセッシ監督によって映画化され、上映されました。小説『沈黙』(1966 年)は、キリシタン禁制の時代に、カトリックの司祭が棄教することをテーマにした、作家遠藤周作の作品です。最初からその評価について議論を呼んだ問題作でもあります。

 映画の題名「Silence」は、17世紀の江戸初期の日本を舞台にした、この歴史小説『沈黙』を映像化したものです。この映画を見た多くの方々は、残虐な拷問に圧倒され、沈黙する神に疑問をもち、信仰を捨てる神父たちを見て、複雑な思いを抱かれたのではないでしょうか。そこで映画について解説しながら、神の沈黙について、聖書から学びたいと思います。

 この映画は、激しいキリシタン弾圧の中で棄教した二人の実在した司祭、フェレイラ(1580頃~1650)と、キアラ(1602~1685)をモデルにしています。ポルトガル出身のイエズス会司祭フェレイラは慶長14年(1609年)、長崎に渡来し、迫害下の長崎や大阪で布教しました。寛永10年(1633)、長崎で捕らえられ、数時間の穴吊るし刑の後、棄教しました。日本名を沢野忠庵、妻と30人の奉公人を与えられ、禅宗寺の檀家となり、長崎に住み、キリシタン詮議に協力しました。この棄教はイエズス会をはじめ教会関係者に与えた衝撃は大きく、海外にも大きな反響を与えました。

 キアラはイタリア人で、イエズス会の司祭です。1635年にリスボンを出港、カンボジア布教などに従事したが、日本布教の熱意から寛永20年(1643)、筑前国(福岡県)に潜入するも、間もなく捕らえらえ、幕府側の詮議を受け、念仏を唱え棄教しました。その後、日本名は岡本三右衛門、妻と奉公人10人を与えられ、宗門改め役の配下として江戸切支丹屋敷で死ぬまで幽閉の身となりました。

 映画では、このキアラをモデルにして主役を演ずるのがロドリゴです。島原の乱(1637~1638)が幕府によって鎮圧されて間もない頃、日本で布教していた準管区長のフェレイラが、苛酷な弾圧に屈して棄教したという報せがローマにもたらされました。フィレイラの弟子であるポルトガル人司祭のロドリゴは、恩師の棄教が信じられず、ガルペと共に、日本に潜入するためマカオに立ち寄り、そこで気の弱い日本人キチジローと出会います。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。幕府に処刑される信者たちの前に駆け寄ったガルペは殉教します。

 次々と隠れキリシタンが役人によって摘発され、海辺の十字架に磔にされ、藁に包まれたまま海へ投げ入れられるなど、激しい拷問を受けるキリシタンの救いが見えない状況にロドリゴは苦悩します。宣教師である彼も、沈黙を続ける神に疑問を持ちはじめます。「主よ、なぜあなたは黙ったままなのですか」と、ロドリゴは主に訴えます。逃亡するロドリゴは、キチジローの裏切りで密告され、捕らえられます。

 以前はキリスト教に帰依して、洗礼まで受けた長崎奉行の井上筑後は、司祭ロドリゴに、日本人にとって果たしてキリスト教は意味をもつのかと、「日本宣教泥沼論」を語り、神への疑問を植え付けます。歴史上実在した人物、井上(正重)筑後守(1585~1661)をモデルにしています。井上筑後守は、三代将軍家光に仕え、島原の乱で島原や、長崎にも度々行き、キリシタン禁圧政策実行の主導者となり、全国のキリシタン根絶に取り組んだ人物です。

 長崎奉行所で、ロドリゴは、棄教したフェレイラに出会います。神の栄光に満ちた殉教を覚悟で牢につながれたロドリゴに、夜半、フェレイラが語りかけます。囚人の信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り彼らは許されないことを告げます。その棄教の説得を拒絶するロドリゴは、一晩中、拷問にかけられた隠れキリシタンたちのうめき声を聞かされます。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、キリスト教徒を救うべきなのか、究極のジレンマを突き付けられたロドリゴに、フェレイラが、「もしキリストがここにいられたら、キリストは転んだでしょう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」と語りかけます。フェレイラが棄教したのも同じ理由によることを知り、ついに踏絵を踏むことをロドリゴは受け入れます。

 夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになります。銅板に刻まれた主の顔に近づけた彼の足に激しい痛みが襲います。そのとき銅板のキリストの顔が司祭に向かって言いました。「踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから」と語りかけます。

  こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねます。映画では、キリストが再び、キチジローの顔を通してロドリゴに語りかけます。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。

 映画の最後は、ロドリゴが亡くなり、仏式の葬儀が行われます。棺桶には座ったロドリゴの遺体があり、ロドリゴの妻がロドリゴの胸のあたりに魔除けの子刀をそっと入れるシーンがあります。このときにロドリゴが最後まで隠し持っていた十字架を入れたのでしょう。ラストシーンは火葬の棺桶の中のロドリゴの遺体の胸には十字架が置かれています。ロドリゴは棄教したのではないことを示しているようです。

 原作の小説では、次のようなロドリゴの独白で終わります。「自分は…あの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」

  遠藤周作とスコセッシ監督は、聖職者も含め人間は拷問の苦痛から逃れるために踏み絵を踏んでしまう、そのような弱い者に焦点を当て、神はそのような弱い者に愛や救済の手をのべて許すほど大きいことをこの小説や映画で訴えようとしたのです。確かにイエスは弟子たちの人間的な弱さを知っていました。だから最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。そして復活した後、弟子たちの会うことを伝えました(マタイ26:31-35)。

 この映画の中で、神への信仰を貫くのか、人を憐れみ信仰を捨てるのか、という二者択一の場面で、「もしキリストがここにいられたら、キリストは転んだでしょう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」というフェレイラの言葉や、踏絵の前で「踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから」という沈黙を破って語るキリストの言葉は、遠藤周作がロドリゴに踏絵を踏ませ、信徒を死から救うことの方を選ばせるために考えだした小説の作者のことばです。聖書の教えに反するものです。作者は、あの第一の戒めである神を愛すことよりも、第二の戒めである人を愛することの方を優先させ、選んだのです。しかし、それが本当に人を愛することになるのかが問題です。なぜなら、この世での生に執着することにより、復活の命に生きる信仰を失わせ、永遠の命を継ぐ希望を捨てることになるからです。

 主イエスは、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を継ぐ。」(マタイ19・29)「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・28)と言っておられます。

 遠藤周作は、拷問に屈した者と、屈しなかった者の違いを次のように述べています。「拷問のなかで神のおそろしい沈黙を感じた者は棄教し神もまた自分と共に今、苦しんでいるのだと考えた者はこの責め苦に耐えぬこうとしたのである。」(『遠藤周作文学全集10 評伝1』エッセイ)

 小説にも、映画にも、拷問の時、神は沈黙していた、としています。「沈黙」という題名は、ここからつけられたのです。殉教者に対する、イエスの執り成しによる霊的支えが何もなかったようにその真相を捉えているのです。そして、神が沈黙を破って語るのは、ロドリゴに踏絵を踏ませる時と、キチジローを通して、「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」とロドリゴの棄教を認める時です。殉教者には、神もイエスも沈黙したままであったとしているのです。

 遠藤周作は、小説「イエスの生涯」の後書きで、イエスの復活自体を起こったこととしてではなく、復活をその信仰者たちに信じさせたその力の存在を通して、復活は信仰者たちの心には真実として確かにあり得たのだと言っています。これはイエスの復活を事実として信じる信仰ではありません。十字架と復活のイエスを主と信じる信仰は聖霊によって与えられるのです。知的思索によって得られるものではありません。『沈黙』は洗礼を受けながらも信仰について疑問を持ち、自らとキリスト教の関係について考え続けた遠藤周作の創作であり、小説なのです。 

    聖書の神は「沈黙の神」ではなく、「語られる神」です。偶像の神は「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」(詩115篇5~7節)、神です。なぜなら、それらは人の手によって造られた偶像だからです。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ人への手紙1章1節)とあるように、天地を創造された聖書の神は、「語られる神」です。

 旧約聖書の中には、沈黙されている神に訴える祈りがいくつも記されています(詩編27篇9節、35篇22節、38篇22節、55篇2~5節)。しかし、「神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。…主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる(38:20,23)」という祈りや信仰が語られています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)で始まる詩篇22篇は、「主は…御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ」ます(22:25-26)、という神への信頼と賛美は、神が御子イエスを死から復活させられたことによって、成就し、確かなものとなりました。

 今日の聖書の箇所にあるように、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。キリストは聖霊によって弱い者を強め、迫害にも耐えるようにしてくださるのです。神は沈黙していません。キリストはわたしたちの心に住んでくださり、どんな時にも共にいてくださる方です。死も剣もどんなものも、キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信を与えてくださるのです。このような強い信仰をもって拷問に耐えた殉教者たちの存在を、小説「沈黙」では無視しています。神を愛することを第一とする者たちの死は、強い励ましと勇気を与える信仰の証し人となったのです。

 

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