↑ 「ユダが去った後の最後の晩餐で語る主イエス」
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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」 聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
復活節第6主日 2018年5月6(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 佐藤 洋子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 474(わが身の望みは)
交読詩編 15(主よ、どのような人が)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書16章12~24節(新p.200)
司会者祈祷
説 教 「父のみもとへ行く。聖霊を送る。」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月13日(日) 午後0時40分~1時30分
毎年恒例の、日本キリスト教団仙台青葉荘教会壮年会の皆様との合同礼拝です。礼拝後、茶室での呈茶と懇談会があります。壮年会で全員の弁当を準備してくださいます。
聖書 ローマの信徒への手紙8章34節~39節
説教題 説教「生ける神は沈黙しない」 辺見牧師
讃美歌(21)510 511 24 交読詩編115篇
司会 野崎光夫兄 奏楽 松本芳哉兄
献金感謝祈祷 田中恵子姉
本日の聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節
16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
本日の説教
ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席での出来事やイエスが弟子たちに話されたことが記されています。「小さい見出し文」に従って、全体を把握しましょう。特に、聖霊について教えている箇所に焦点を当ててみましょう。
13章1-20節 イエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちもするように、模範を示します。 21-30節 ユダの裏切を予告する。ユダは食事の席から出ていきます。 31-35節 新しい愛の掟を与えます。 36-38節 <あなたのためなら命を捨てます>と言うペトロに対して、イエスは、<あなたはわたしを知らないと言うだろう>とペトロの離反を予告します。
14章から16章まではイエスの別れの講話が続きます。その中で、イエスが去った後で、弟子たちに与えられる聖霊についての話しがなされます。 14章1-14節 <イエスは天の父に至る道である>ことを教えます。トマスやフィリポの質問に答えます。 15-31節 ここから聖霊を与える約束がなされます。 1 イエスの願いにより、父は別の<弁護者>を送る(14:16) 2 <弁護者>は弟子たちと永遠にいる(14:16) 3 <弁護者>は、<真理の御霊>である(14:17a) 4 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない(14:17b,c) 5 しかし弟子たちはこの霊を知っている(14:17d)。それは弟子たちと共におり、また弟子たちの内にいるからである(14:17e、また20:22) 6 <弁護者>は<聖霊>である(14:26a) 7 <聖霊>が弟子たちにすべてのことを教える(14:26a) 8 <聖霊>はイエスが弟子たちに話したことをことごとく思い起させる(14:26b)
15章1-17節 イエスはまことのぶどうの木であるという宣言と教えです。 18-27節 迫害を受けることを予告します。 9 <弁護者・真理の霊>は、イエスの昇天後に、イエスについて証しをする(15:26)
16章1-4a節 これらのことを話したのは、つまずかせないためであるとイエスは話します。 4b-15節 聖霊の働きについて話します。 10 <弁護者>が来れば、世の誤りを明らかにし、断罪する(16:8) 11 <真理の霊>は、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(16:13a)12 <真理の霊>は、これから起こることをあながたに告げる(16:13b) 13 <真理の霊>は、自分の権威について語らない。イエスに栄光を帰す。イエスのものを受けてあなたたちに告げる(16:13c、d、14)
16章16-24節 悲しみが喜びに変わると話します。 25-33節 イエスは既に世に勝っていると宣言します。
17章1-26節 17章は、後に残る弟子たちのための、イエスのとりなしの祈り(大祭司の祈り)です。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書16章12節から、24節までです。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12-13)
イエスが地上にいる間に言っておきたいこと、まだたくさんあるが、弟子たちはそれを理解できない、とイエスは言われます。 <聖霊>は弟子たちにすべてのことを教える(14:26a)と話されていましたが、弟子たちを真の理解に導く聖霊の働きを、再びイエスは取り上げて話します。<真理の霊は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。しかし、真理の霊は、イエスにおける神の啓示に全く新しいことを付け加えるのではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事の意味を告知するものなのです。また、真理の霊の働きとして<これから起こることをあなたがたに告げる>と言われています。<これから起こること>とは、イエスの捕縛であり、十字架の死と復活です。
「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(16:14-15)
<その方>・真理の霊がイエスに<栄光を与える>ことが語られます。聖霊こそが、イエスの地上の生涯の間、隠さていた事柄を啓示するのです。地上のイエスの啓示は、弟子たちの理解が弱かったために、ある程度限定されたものでした。もちろん、それは、啓示自体が限定されたものであるということではなく、啓示を受け取る側の理解が限定されたものであったということです。従って、イエスの栄光が完全に開示されるためには、聖霊が必要とされるのです。<父が持っておられるものはすべて、わたしのものである>と、父と子の一体性を再び述べます。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠なのです。このような父と子と聖霊の一致は、後の三位一体論につながっていきます。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(16:16-18)
イエスは、これまで別れの講話で語ってきた、イエスが神のもとへ帰ることと弟子たちのところへの再び来ることについて、語ります。しかし、ここでの強調点は<しばらくすると>です。それは、ほんの短い期間を示します。別れの講話を語るイエスにすれば、十字架について地上を去り、聖霊において再来するということは、ほんの短い間に起こることなのです。しかし、<弟子たちの中のある者>は、何のことなのか理解できません。特に、<しばらくすると>にひっかかってしまうのです。<しばらくすると>は、切迫した終末が来ることを意味するものではありません。
「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。(16:19-21)
弟子たちの疑問を見抜いたイエスは答えます。<はっきり言っておく>は、ギリシャ語原典では、「アーメン、アーメン、わたしは言う」とあり、荘重なことばで言われる発言です。イエスは、現在の弟子たちの悲しみと世の喜びを対比してから、弟子たちの<悲しみは喜びに変わる>ことを宣言するのです。そして、そのことをさらに確かにするために、一つのたとえを語ります。それは産婦の産みの苦しみと誕生の喜びのたとえで、非常に分かり安い印象的なたとえです。産婦の産みの苦しみをたとえとして用いることは、旧約聖書にもたくさんあります(イザヤ書13:8、ミカ4:9など)。そこでは、苦痛だけが問題とされているのですが、その苦しみが子供の誕生の喜びによって忘れられるということがここで言われています。<自分の時が来たからである>とは、妊婦が出産の時を迎えた時を表します。イエスが去ることによって、やがて起こる弟子たちの悲しみ、苦しみも、同様に喜びに変わるとイエスは慰め励ましているのです。イエスの死を<世は喜ぶ>と言っています。この場合の<この世>とは、メシア・イエスを十字架にかける悪の支配する世界です。
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:22-24)
弟子たちも、今、イエスが地上から去ることに悲しんでいるが、それは、産みの苦しみのようなものです。弟子たちの共同体は、復活のキリストに出会い、聖霊における再来のイエスに出会って、<喜ぶことになる>のです。そして、その喜びは、終末の喜びなのです。<その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない>のです。どんなものも、イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです。<その日には>、聖霊の到来によって、イエスが語られ、なさったすべてのことが明らかになり、弟子たちは、もはやイエスに何も尋ねることはなくなるのです。イエスの死は、単なる敗北または挫折ではなく、わたしたちも古い自分、古い生命に死んで、永遠の生命に至るための、道を開くものとなったのです。復活の主に再会することによって、決して奪われることのない喜びを与えられるのです。
<はっきり言っておく>と再び言われます。「アーメン、アーメン、わたしは言う」です。ここでは、14:13-14、15:16で語られたことが反復されます。イエスの名によってなされるすべての祈りは、イエスの執り成しにより、必ず聞かれ、父なる神によってかなえられる、と明言されます。イエスの名によって願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びにみたされる。そのことによって、イエスは父と一体であり、イエスは神の位置に立つことが明らかにされるのです。
イエスの逮捕と処刑は目前に迫っているただ中で、イエスの口から「希望」が、<悲しみから喜びに変わる日のこと>が、<心から喜ぶことになる>ことが語られています。イエスの名による祈りは、わたしたちに明日への希望を与えるものであり、満ち溢れる喜びを約束するものであります。愛だけが永遠に支配する世界に、わたしたちの思いと目を向けさせてくれます。