「981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
聖霊降臨節第6主日 2016年6月19日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 405(すべての人に)
交読詩篇 126編1~6節(主がシオンの捕らわれ人を)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新p.354)
説 教 「異邦人の救い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 402(いともとうとき)
聖餐式 78(わが主よ、ここに集い)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 6月26日(日) 午後5時~5時50分
聖書 使徒言行録9章36~43節
説教 「生命の回復」
賛美歌(21)405 481 24 交読詩編 49篇
本日の聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節
11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
本日の説教
エフェソの信徒への手紙は、宛先がエフェソの教会となっていますが、他のパウロの手紙とは異なり、ただ一般的な教えが説かれているだけであって、差出人と受取人の具体的な状況記述がなく、宛先も不確かです。
この手紙の著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。これは読者の状況の違いや著者の目指した主題の相違などによる結果とも思われます。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。
いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。
内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神の大いなる救いの計画と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会の意義とがしめされています。4章以下は、それに対する実践的な部分です。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。また、夫婦、親子、主人と奴隷などの関係をも説き、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励ましています。
本日の聖書の箇所は,2章11節から22節までです。「だから、心に留めておきなさい」という言葉で始まります。「だから」とは、2章1節から言われていたことを受けています。2章1節から10節までで言われていたのは、「あなたがた」も、「わたしたち」も、以前は「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたので」、生まれながら神の怒りを受け、滅ぶべき存在だった、と言っています。しかし、このような罪に死んでいた私たちを、神は御子の十字架と復活にあずからせて、キリストと共に生かし、復活させ、天の王座に着かせてくださったのです、と語っています。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。御子キリストを信じる信仰によって救われたのです。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです、とあります。私たちは神によって、イエス・キリストにあって造られた者であり、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのです、と語っています。そして今日の箇所に入ります。
読者の多くはユダヤではなく異邦人でした。「あなたがた」は、「肉によれば異邦人」の生き方していました。以前は、神がイスラエルの民に与えた「約束を含む契約」に関しては全く関係がなく、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いました。真の神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりというところに生きていました、と言っています。私たちは神様の救いから遠く離れていた異邦人でした。しかし「今や」、「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」
このように「以前は自分の過ちと罪のために死んで」(エフェソ2・1)いた者を、あわれみ深い神はキリスト・イエスにあって生かしてくださったのです。異邦人のクリスチャンは、常に自分の現在と過去とを比較することによって、神の恵みの偉大さを知るべきです、と説いています。
一方、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があると言いながら、実際には「約束の契約」を守らず、神のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた神の民としての立場を誇り、他の民族を「異邦人」と呼び、心の底では穢れた民として彼らをさげすんでいたのです。
確かに異邦人は「神を知ら」ない人達で、以前は「キリストと関わりはなく」、そのままでは望みのない人たちでした。しかし、今や神の御計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、「遠い者」(異邦人)も、「近い者」(ユダヤ人)も、共に神との和解にあずからせていただいたのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破り、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったからです。「平和」という語は、ギリシャ語ではおおよそ戦争のない時期を示しているが、聖書では平和な時期よりもむしろ平和な関係を示す語です。ここでは神と人、人と人との関係が平和であることを語っています。
こうしてキリストは、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
ユダヤ人も異邦人も罪深い者であり、偏見と高ぶりに満ちていました。このような両者を「一つの体」とするために支払われた代価は、神の御子の十字架の死です。イエスの十字架のあがないの血によって、神と罪人との和解は成立し、人と人との間の平和も確立できるようになったのです。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「一人の新しい人」です。
この「一人の新しい人」というのは、キリストの体である教会を指しています。キリストはこの世においでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ、アバ父よといって祈り、神の家族となるのです。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。」最も遠い関係である「外国人」と「家族」の関係を例にとり、この世から召し出された聖徒たちの新しい関係を表現しています。ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの国民とされ、神の民として聖徒と呼ばれていることを明らかにしています。そればかりでなく、クリスチャンは「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ」、神の家族とされているのです。家族とは、この世の中で最も基本的な単位です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。
ここで聖徒の群れを建物にたとえています。この比喩によってパウロが明らかにしようとしている真理の一つは、教会が地上における「神の住まい」となるということです。この「建物」の構造は、キリスト・イエスを礎石とし、使徒と予言者を土台とし、選ばれた信徒を一つ一つの素材として、「組み合わされた」ものです。私たちは、教会の構造の中に全体として組み合わされ、神の栄光を現す役割を果たさなければなりません。各人が生きた石であるように積み上げられることにより、建物全体が成長して行くところの建築のイメージをもって説かれています。使徒や預言者、そしてキリストさえ建物全体の素材の一部と見られています。キリストは「隅の親石」あるいは「要石(かなめいし)」に譬えられています。ギリシャ・ローマ世界において、建築現場で大理石を積み上げて行く時、まずははじめに、「隅に親石」を置き、そして礎石、それから次々に大理石を積み上げて組み合わせていきます。アーチの頂点に最後にはめこむのが「要石(かなめいし)」です。体なる教会におけるキリストの機能の一つが「組み合わせる」ことですから、キリストは「隅の親石」に譬えられます。キリストなくしては建物はばらばらになり、分裂分派してしまいます。また、建物全体が、終末の完成をめざしているので、その完成である「頭」であるキリストへと向かって成長するので、キリストは「要石」に譬えられるのです。
このように、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。教会が「聖なる神殿」にたとえられています。しかし教会は建物・建造物ではありません。聖徒の群れ、神の家族、信仰者の共同体を、建物に例えて語っているのです。あなたがたは神の神殿です」(Ⅰコリント3・16~18)キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。主の名のもとに二、三人いるところには、御霊の主が共におられ、聖霊が働いておられます。この霊の働きによって、聖徒の群れは神の住まい、神の家族となるのです。手紙は「あなたがた」と、直接呼び掛けて、一人一人が教会の成長と完成に向かって、協力し励むように励ましています。神は私たちを用いて個々の教会の成長のための人材としてくださるとともに、キリストを頭とする世界規模の神の家族としての教会の一員であることも覚えて、そのための教会形成の役割をも担っていること忘れてはならないと思います。