富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」 ヨハネによる福音書6章60~71節

2016-02-26 00:28:57 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    受難節第3主日        2016年2月28日(日)   午後5時~5時50分

             礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩篇   90(主よ、あなたは代々に)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書6章60~71節(新p.176)

説  教   「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                       次週礼拝 3月6日(日)午後5時~5時50分

                                                    聖書 ヨハネによる福音書12章1~8節

                                                     説教   「香油を注がれる主」

                                                  賛美歌(21) 543 567 24 交読詩篇 2

     本日の聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

  60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

                   本日の説教

  今日の聖書の箇所は、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』と言った」という記述から始まっています。このつぶやきの内容を正しく知るために、6章の初めから続いてきた物語をたどってみましょう。

    過越しの祭りが近づいていたとき、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の向こう岸のベトサイダに渡られ、人里離れた山に登られたイエスは、後を追って来た男だけでも五千人にのぼる群衆に、パンをお与えになりました。過越祭では、神の怒りを過ぎ越すために子羊が屠(ほふ)られ、出エジプトの時のことを記念します。イエスは、人間の罪の贖いとなるため、世に送られた神の小羊です。また、イエスは「生命のパン」の与え手であり、また同時に「生命のパン」そのものであることをこの奇跡で明らかにし、人間の肉体的・霊的な必要にお応えになられたのです。この供食は、主の晩餐(聖餐式)を先取りする食事でもありました。

    そうして、一方では肉の糧を求めてやまない群衆と、他方では霊の糧・永遠の命に至る糧を与えようとするイエスとの間に、大きなくいちがいがあることが次第に明らかにされていきました。群衆はイエスのなさった奇跡を見て、イエスを王にし、政治的・経済的安定を企てたとき、イエスは姿をかくして彼らの要求に応じませんでした。

   方になってから、弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸のカファルナウムに向かいました。既に暗くなり、強い風が吹いて湖が荒れ始めたとき、イエスは湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づきました。イエスを見て恐れた弟子たちに、イエスは「わたしだ。恐れることはない」と言われ、彼らがイエスを迎え入れようとする間もなく、舟は目指す地に着きました。

   その翌日、ベトサイダの岸に残っていた群衆は、一そうあった小舟とティベリアスから来た数そうの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムにきました。おそらく群衆の多くは海岸の陸路を歩いて行ったのでしょう。そして群衆はイエスを見つけ、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねました。

   イエスはその問いに直接には答えず、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなくパンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与えようとしているパンである」と言われました。

   そこで彼らは、「神の業を行うために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。人々は永遠の命のパンを得るために、何らかの業を行い、その報いとしてそれを受けるものだと考えています。イエスは、「神がお遣わしになった者を信じることが神の業である」と答えました。そこで彼らは「それではわたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。先祖は荒れ野でマンナをたべました」と言いました。<しるし>とは目に見える証拠です。彼らはモーセのことを持ち出し、しるしと不思議とを見なければ信じられない、と言ったのです。

   イエスは群衆の問いに対して、モーセが天からのパンを与えたのではないことを指摘し、天からまことのパンを与えるのは、モーセではなく、イエスの父である神であり、そのパンは天から降って来て、世に命を与えるパンであると言われたました。

   そこで彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました。

   イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない、しかしあなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言い、更に「わたしが天から降って来のは、わたしをお遣わしになったわたしの父の御心を行うためであり、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、その人を終わりの日に復活させることである」と言われました。

   イエスを信じることが永遠の命を既に得ていると言われています。終末の日に起こる出来事の現在化が明確にされています。

   ここからはは群衆ではなく、ユダヤ人とイエスの対話に変わります。59節にあるように、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときの対話となります。

   イエスは、わたしは天から降ってきた命のパンであると言い、人間に命を直接に与えることが出来るのはモーセではなく神であると語りました。このことはイエスが神と等しい者であること意味しています。この話を聞いてユダヤ人たちは躓き、イエスのことでつぶやき始めました。

   「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」と言いました。人間イエスが神と等しい者だと主張したことを否定しました。

   イエスは、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と言われました。神が霊によって明らかにしてくださらなければ、神の霊に属することは理解できないのです(コリント一,2・10)。イエスははっきり言われます。「信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。…わたしは天から降ってきた生きたパンである。…わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われました。

   ここでは、イエス御自身が命のパンであり、その命のパンの与え手であることが宣言され、そのパンとはイエス御自身の肉であると言われています。

   それでユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めました。51節cから58節は聖餐についての議論です。

   イエスははっきり言っておく、と語り出します。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」十字架の上で裂かれたイエスの体、流された血、それにあずかることによってキリスト者は神の与える新しい命に生きるということが言われています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもその人の内にいる。…わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」聖餐にあずかることが、神とイエス・キリストと弟子たちとの一体性のしるしであると言われています。

   いよいよ、ここからが今日の聖書の箇所、6章60節に入ります。弟子たちの多くの者はこれを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とイエスに躓きました。聖餐を具体的内容とした議論に躓いたのです。

   イエスは弟子たちがこのことについてつぶやいているを知って、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と言われました。「一層躓くだろう」という文章が完結しない形が使われています。イエスが命のパンであると認めることが出来ない者は、ましてや十字架、復活、昇天の一切のことを認めることは出来ません。

   命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たないわたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

   自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです(コリント一、2・14)。イエス・キリストによる罪の赦しと復活の信仰をもって、イエス・キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能なのであり、この信仰を抜きにしてパンを食しても何の役にも立たないことが意味させています。

   わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

   すべての被造物を創造したのは言であり、命を与えたのも言でした。その意味では神が命をもっておられ、イエスもまたその命を託されているのですが、聖霊もまた、命をもっており、霊自体が命であると言われています。

   しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる

   イエス御自身が伝えようとしている真理は、人格的真理であり、それは受け取り手の主体性、自由ということが保証されていなければなりません。信仰は強制されるものではありません。従って信じる者がいる反面、信じない者たちが出てくることは明かなのです。

   こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」とイエスは言われました。

   これは聖霊の働きなしにはだれもイエスを信じると告白することができないということを言っています。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなりました。

   この翌年の春の過越しの祭りの時には、イエスは過越しの子羊として十字架の死を迎えなければなりません。また命のパンとして御自身の命を与えなければなりません。そのため、ご自分の使命を弟子たちに伝え、受難を予告したのです。しかし多くの弟子たちはそれを理解することができず、躓きました。残ったのは十二弟子だけでした。

   多くの者が去っていったとき、イエスは残った十二人の弟子たちの心を確かめるために、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。

   シモン・ペトロが、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えました。<主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか>という答えには、<主よ、わたしたちにはあなたの他にだれのところにも行くところはありません>という反語が秘められています。主イエスから離れて行きません、共にいることの大切さが身にしみていますということです。あなたは永遠の命を与える言をお持ちであり、神から聖別された聖なる方であると信じています。この告白はペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰を言い表したものです。

   このペトロの告白を主イエスはどんな喜ばれたことでしょう。しかしこのペトロの告白に対するイエスの評価の言葉はありません。マタイ福音書では「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16・17)と語っています。ヨハネ福音書ではペトロの告白はイエス御自身を「あなたは命の言です」とまでは言っていません。また神から来られたメシアですとも言っていません。このペトロは復活されたイエスに出会い、聖霊降臨の恵みを受けた後は、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、(神が死者の中から復活させられたイエス・キリスト)、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」、と証言するようになります。(使徒言行録4・12)

   すると、イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのです。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていました。イエスは御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのです。

   群衆もユダヤ人たちも、弟子の大部分さえも、イエスの語られた御言葉を理解しませんでした。彼らは霊のことよりも、現実のパンをキリストに期待しました。霊の救いよりは、肉の満足と安楽を求めました。彼らには、キリストの霊の言(ことば)、霊の救い、永遠の命などは理解できませんでした。

  今日も主イエスから去って行く人は多いのではないでしょうか。その中にあって、神に選ばれた私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(ペトロの手紙一、1章8、9節)。」

   主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」あなた共に生きることができるのは、無上の喜びです。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください(詩編80・19)。」主イエスが共にいて下さるなら、わたしたちはどんな苦しみも、死でさえも乗り越えて進んでゆくことができます。あなたこそ天から来られた神の子です、と証しし、すべての人が救われることを祈りつつ信仰の歩みを続けてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする