富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイによる福音書4章1~11節

2016-02-13 18:22:10 | 説教

      981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   受難節第1主日        2016年2月14日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩篇   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マタイによる福音書4章1~11節(新p.4)

説  教  「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 284(荒れ野の中で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                         次週礼拝 2月21日(日)午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネによる福音書9章13~41節

                         説教   「メシアへの信仰」

                         賛美歌(21) 449 528 交読詩篇 16

  受難節 2月10(水)から3月26日(土)までの、40日と6回の日曜日を合わせた46日間が、キリストの苦しみと十字架の死を思い起す受難節です。「灰の水曜日」は、悔い改めや悲しみを表現する灰で信徒の額に十字のしるしをした教会行事に由来しています。

   本日の聖書 マタイによる福音書4章1~14節

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

    本日の説教

  イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。洗礼を受けたとき、イエスは神の霊に満たされ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。

  悪魔(サタン)とは、人間を誘惑し、罪を犯すように誘って、神に反逆させる者です。悪魔の誘惑の目的は、人を神から引き離し、自分の支配下におくことにあります。イエスは伝道を始める前に、この悪魔の誘惑に打ち勝つ必要がありました。

       誘惑の山 ワディ・ケルト

   イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。洗礼を受けたとき、イエスは神の霊に満たされ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。

     悪魔(サタン)とは、人間を誘惑し、罪を犯すように誘って、神に反逆させる者です。悪魔の誘惑の目的は、人を神から引き離し、自分の支配下に置くことにあります。イエスは伝道を始める前に、この悪魔の誘惑に打ち勝つ必要がありました。

    イエスは荒野で、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。<四十>という数字は訓練の期間に関係しており、<四十日間、昼も夜も>という句は、モーセの断食(出エジプト記34・28、申命記9・9,18)と関連しますが、ここでは明らかにイスラエルの荒れ野での四十年間の放浪(申命記8・2-6)を想起させます。

     紀元前1280年頃、イスラエルの民は、寄留地エジプトを脱出し、神が与えると約束したカナンの地、現在のパレスチナを目指しました。イスラエルの人々は、シナイ半島の荒れ野に入ると空腹になり、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立てました(出エジプト記16・1~4)。このイスラエルのつぶやきは、すべて必要なものを与えたもう神を信頼していない不信仰の表れでした。

    主イエスも荒れ野での四十日間の断食の後、空腹になられました。そのときサタンが来て、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘いました。サタンは、「あなたは神の子なのだから」と言って、その神の子としての権威をもって、石をパンになるように命じたらどうかと誘惑したのです。

     イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになり、悪魔の誘惑を退けました。

    イエスは申命記8章3節の聖句を引用しました。この御言葉はどのような状況で語られたのでしょうか。

     申命記は、イスラエルの民が、モーセに率いられて奴隷状態にされていたエジプトから脱出し、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンを目前にしたとき、モーセが神のみ心と掟をもう一度語り聞かせたものです。イエスが引用した聖句の前に、モーセは民に、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」と語っています。

    イスラエルの民はこの四十年間、主なる神に導かれて荒れ野を旅し続けてきました。神に出発せよと命じられると、天幕を畳んで出発し、神に留まれと言われると、そこに宿営し、荒れ野でのイスラエルの民の歩みは、神の御言葉によって導かれていました。

     モーセは続けて語ります。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

     主なる神が、荒れ野であなたがたを苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせた理由は、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とモーセは語ったのです。

     食糧もない不安な苦しい旅で、民が飢えてモーセに不平を述べた時、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」と語りました(出エジプト記16・4)。こうしてイスラルの民は四十年にわたってこのマナを食べました。神が日ごとに与えた<マナ>は、人々が「これはなんだろう」(マン・フー)と言ったので、その名がつきました。マナは神の恵みとして天から与えられた食物でした。イスラエルの民はパンがなくとも、神が与えてくださったマナによって養われたのです。イスラエルの民は、このような経験を通して活ける主なる神を知ったのです。

    <人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる>、このことをあなたがたに知らせるために神はあなたがたを苦しめたのだとモーセは民に語りました。<主の口から出るすべての言葉によって>とは、神が民に語る言葉です。この言葉によって、民は守られ、導かれ、養われて生きることができました。神が民に語る言葉は、神と民とを結びつけ、民は神との交わりの中で生きることができたのです。主の口から出るすべての言葉は、まさに民を生かす命の言葉でした。このことをイスラエルの民に知らせるために、神は訓練として民に荒れ野の苦しみを与えられたのです。

  主イエスは、悪魔の誘いに乗りませんでした。人はパンだけで生きるのではないからです。人を生かすのも殺すのも、生殺与奪の権は神にあります。イエスは神の子としての権能を、自分の護身のために用い、奇蹟によって石をパンに変えて、自らに提供することは神への不信であることを見破り、自らが完全に神に依存していることを示したのです。 

    わたしたちもパンだけで生きるのではありません。神様が語ってくださるすべての命の言葉によって生かされ、天の父よと祈る神様との交わりの中で生きされているのです。神が「人の子よ、帰れ」と仰せになれば、人はみな死の時を迎えなければならないことを知らなければなりません(詩編90・3)。

     <主の口から出るすべての言葉>とは、イエス・キリストを指すことばになりました。キリストは「神の言(ことば)」(ヨハネ1・14)であり、天から降ってきた命のパン(ヨハネ6・48)だからです。このパンを食べるもの者は永遠に生きる者とされるのです。   

    次に悪魔は<イエスを聖なる都・エルサエムへ連れて行き>、神殿の屋根の端から飛び降りてみなさい、と誘いました。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する、その場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、とそう信じていました。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。そして悪魔はイエスに対して、神の子メシアとしての権能を行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。悪魔は詩編91・11~12の引用によって試みます。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。この詩編は神への全き信頼を示す祈りです。悪魔はこの御言葉を用いて誘惑したのです。

     イエスはこの奇蹟を要求する偽りの神への信頼への誘いに対して、申命記6章16節の「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉を言って誘惑をはねのけました。この言葉は、「あなたがたがマサでしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とある言葉から引用したのです。これは旧約聖書の出エジプト記17・1-7に語られている出来事を背景にしています。イスラエルの民の飲み水がなかったときの出来事です。「彼(モーセ)は、その場所をマサおよびメリバと名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』という質問によって、モーセと争い、主を試したからである」(申命記9・22,33・8)。この反抗的な民は、主なる神に対して挑戦し、そうすることで、神との契約に値しないことを証明しました。他方イエスは、神殿の屋根の端から跳躍することで神が彼と共におられることを証明することを拒否されるのです。

     更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。すると、イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」言って、これを拒否しました。申命記6章13節から引用した御言葉で拒否しました。

  申命記には、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」という命令に続いて、「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6・13、14)とい偶像礼拝を警告する御言葉です。他の多くの警告が出されたにもかかわらず、イスラエルは繰り返し他の神々を拝んだのです。

     この第誘惑には詩編2・8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。イエスは神の子の権威をもって「退け、サタン」と命じ、悪魔を退けました。イエスは父なる神にへりくだって従順であり、神だけに仕えられたのです。まさにイエスは父なる神と一体となっている神の子でした。そこで悪魔は離れ去りました。すると天使たちが来てイエスに仕えました。

     主イエス・キリストがこの世に来られ、人間となってこの世を歩まれ、そして悪魔の誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくことができるのです。

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