富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「心の目を開くイエス」 ヨハネによる福音書9章1~7節、35~41節

2016-02-21 16:02:29 | 説教

                ↑ シロアムの池は、ギホンの泉からエルサレムの城内に水を引くため、ヒゼキヤ王の時代に、竪穴を掘って水路を造り、下の池まで水を引いた所されてきましたが、発掘調査によって大きい古池が発見され(現在は池に降りていく階段)、これがヨハネ福音書9章に出てくるシロアムの池と見做されています。 上の地図では、ギホンの泉から(上の池)から縦の赤い点線で示されている古い地表水溝を通って行く先の古池が、新しく発見されたシロアムの池です。 
       シロアムの池   発掘中の古池(シロアム)                                              

      981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本キリスト教 富 谷 教 会

              週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    受難節第2主日        2016年2月21日(日)  午後5時~5時50分

    礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

交読詩篇   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書9章1~7節(新p.184)、35~41節(新p.186)

説  教     「心の目を開くイエス」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

                      次週礼拝 2月28日(日)午後5時~5時50分

                       聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

                       説教   「受難の予告」

                       賛美歌(21)403 522 24  交読詩篇 90

   本日の聖書  ヨハネによる福音書9章1~12節、35~41節

  1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

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  35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

   本日の説教

 ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。

主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。

 それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。「だれの罪か」という弟子たちの問いに対して、イエスは、「本人の罪によるのでも、両親の罪によるのでもない」と言われた後、「それはただ神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。この人が生まれながら盲目になったのは、彼の上に神のみ業が現れるためであり、彼によって神の栄光を表わされるためであり、神のためなのであるとイエスは答えられたのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。

  更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。

  イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。

  今年の一月二日の未明、八十五歳で亡くなられた、母教会の主にある兄弟のことを思い起します。彼は生来、身体が弱く、次々と大病を患い、なかでも弱視は彼の勉強に非常に支障をもたらしました。樺太で生まれた彼は、中学生の時に終戦を迎え、一家は彼の親の郷里に引き揚げてきました。高校時代、友達が将来の夢に向かってはばたいている時期、彼の視力は次第にかすんで行き、一番前の席に座っても黒板の字もかすむほどになり、「何故自分だけがこんな目に会わなければならにのか」の思いが募り、親を恨み、親を責めたい気持ちだけが膨れていったそうです。その頃、友人に誘われて教会に行ったとき、牧師に「愛の神がいるのなら、何故こんなひどい目に遭わせるのか」と問いただしたそうです。牧師の答えは「今に分かる」でした。しかし、ちっとも分からず不平不満でいっぱいでしたが、それが分かったのは数年後でした。当時、教会の長老をしていた全盲の方から、ヨハネによる福音書九章一から十二節まで読むように薦められました。彼はイエス様の言葉を知って、自分の思いもつかない別の次元があることを初めて知りました。彼は不幸と思われる病気、貧乏、苦難なども、愛の神の御計画の中にあることを知りました。そして愛の神が常に見守って間違いを知りました。十八歳の春の復活祭に、彼は教会で洗礼を受けました。その後の彼は立派なクリスチャンになり、若い人たちからも敬愛され、教会の長老に選ばれ、長い間活躍しました。その後も病気にもなり、目も不自由になられましたが、良き妻と頼もしい息子様や娘様やお孫様にも恵まれ、神の大いなる恵みに支えられた生涯を送られました。彼は亡くなる十年目前頃から全盲になりましたが、人生の大切な時期に見えることを許されたことを感謝し、いろいろな不便はあっても不平を言うことはありませんでした。彼の目が不自由だったことが、彼を教会に導き、彼に信仰を与え、彼を救い、永遠の命に生きる希望を与えました。彼に神の業が現れたことを彼は証しし、神に栄光を帰す生涯を送りました。

  9章の8節以下には、このイエスによって癒された男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。「お前の目はどのようにして開いたのか」と、目が開かれたことの原因を問うたのです。彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と答えました。人々はその人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言いました。

  人々は、イエスによって開かれたということが分かると、この人を当時の宗教的指導者であるファリサイ派の人々のもとに連れて行ったのです。彼らはモーセの律法についての最高の権威者で、ユダヤ人の日常の信仰の生活を指導する人たちでした。ファリサイ派の人々の中である人は、イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことだったので、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言い、ある者は、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろう」と言い、彼らの間で意見が分かれました。そこで、人々は盲人であった人に再び問いました。「いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの人は預言者です」と答えました。

  それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じることが出来ず、その人の両親を呼び出して尋ねました。「この者は生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は見えるのか。」両親は、「どうして今、見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもには分かりません」と答えました。もしイエスをメシアだと言えば、両親は会堂から追い出されるので、両親はこのように答えたのです。

 ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言いました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」この癒された男にとっては、その癒しがなされたのが安息日であったかどうかは問題ではなく、彼は律法には無知であったので、イエスが罪人かどうかは分かりません。ただ彼が知っていることは、「ただ一つのこと、盲人であったわたしが、今は見えるということです。」彼は、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と問い返しました。彼らは男をののしり、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。あの者がどこから来たのかは知らない」と言いました。彼らの言っていることは、外面的・形式的には正しいのですが、律法の精神と目的に対して盲目なのです。

 イエスが預言者であることを認めたこの男は、ここでイエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えたのです。このことはファリサイ派の人々を憤慨させます。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失うことで致命的なことでした。

  イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。

 イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。礼拝とは、自分の内に救いの確かさを見いだすことをやめて、ただ主とする方の前にひざまずくことです。自分の不確かな信仰の中に、主なる神が確かな救いを示して下さることを求めて、主イエスの前に全てを明け渡すのです。

  信仰の出発点においてはその恵みを十分理解していないことがあっても、さまざまな困難や迫害によって更にこの信仰が恵みから恵みへと成長させられていき、まさに生きづまったその時にイエスが何者であるかが明らかにされ、新たな飛躍を与えられるという、信仰者の生涯に起こることが、ここに明らかにされています。

  イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こった、という意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。救うために来られたのです。

 「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちであり、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされるのです。ファリサイ派の人々は、律法についての最高の権威者であると自任しています。この思い上った自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。だから、彼らの罪は取り除かれず残るのです。自己を義とする心が罪の本体なのです。

  わたしたちは主イエス・キリストの神に、わたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう(エフェソの信徒への手紙1・18)。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。

 

 

 

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