富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

永眠者記念礼拝説教「わたしは道であり、真理であり、命である」

2015-11-05 11:35:13 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   永眠者記念礼拝    2015年11月3日(火・文化の日) 11時~11時50分 

       礼 拝 順 序

招 詞    詩編68篇20-21節

      「主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神。主、死から解き放つ者。」

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音書14章1~6節 (新p.196)

説  教   「わたしは道であり、真理であり、命である」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

  本日の聖書 ヨハネによる福音書14章1~6節

  14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

     説 教

 「永眠者記念礼拝」とは、神に召されて亡くなった方々を覚えて礼拝することです。 

 「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。…いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら(詩編84・3,5)」、とあるように、今は天に迎えられ、神を賛美している方々を覚えながら、わたしたちはみ神をたたえるのです。

 アブラハムから始まった創造主への信仰は、「わたしの示す地に行きなさい」と言われた神に、聞き従うことから始まりました。それは、紀元前1950年頃、エジプト第二王朝時代のことです。すでに、アブラハムを呼び出された時から、神は世界の民を救うために御子・キリストを世に与えるご計画を立てておられました。

 イエス・キリストによる救いが分かるのは、信仰によらなければなりません。信仰は神のことばを聞くとき、キリストの福音を聞くときに与えられます。聖霊の恵みによって、神の愛、キリストの愛が分かり、キリストの復活も信じることができるようになるのです。信仰は神がわたしたちに与えてくださる恵みによって生じるのです。

 聖書は人間の罪や死を次のように教えています。人間は、人間を造られた神と霊的に交わり、神に生きる特別な存在として創造されました。それにも関わらず、神に背を向け、神に従うのではなく、神から自由になって、自分が主人となり、自分の思いに従って生きる者となりました。<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的な力であり、人間に及ぼす支配力です。人間は、この罪に陥ったため、神との関係は破れ、神との交わりを絶たれ、罪のゆえに死ぬべき存在となりました。この罪によって神との関係だけでなく、人間同士の間の愛の関係も損なうことになりました。

 罪の故の死は、ただ身体が死ぬということではなく、霊的存在としての人間が、神との霊的交わり失い、霊的に死んでいる状態を言います。身体の死はその結果であり、死とはそのような霊的な死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的な力なのです。この罪があるために、神の前には正しい者は一人もいないのです。罪の自覚が生じるのはそのためです。

 罪の支配下にある人間へ、罪へ誘う欲情が働き、死に至る実を結ぶせます。それが、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、貪欲といったものです。このような罪を犯す者は神の怒りのもとにあります。罪にそまっているわたしたちは、行いによって神に正しい者と認められることは不可能です。御子キリストの救いを信じる信仰によってのみ、正しい者とされ、神との霊的な交わりを取り戻すことができるのです。神の霊を受けて歩む人間は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ぶ人になります。

  神の御子イエス・キリストは、この罪と死の支配するこの世に来られ、十字架の死によるあがないによって人間の罪を赦し、陰府(よみ)にまで降って、死を打ち破って復活し、天に昇られました。わたしたちのために天に場所を用意してくださるためです。

 洗礼式は、イエスの十字架の死とあずかって、イエスと共に死に、イエスの復活にあずかって、新しい命をいただき、聖霊を受けて生きる者とされるための式です。

 イエスは、最後の晩餐のあとの告別説教で、弟子たちに、わたしは「場所を用意しに行く」と言われました。イエスは、これから受ける苦しみ(十字架の死)と栄光(復活)を、弟子たちが父の家に入ることができるようになるために準備しておられます。イエスは道であり、真理であり、命です。イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないのです。

 信仰の証人となった聖徒たちは、様々な困難な闘いの中で、最後まで信仰を捨てず、この世の幸いよりも、永遠の御国に憧れて、その生涯を走り終えました。そして御国へと力強く凱旋されたのです。人生は死をもって終わるものではありません。死はしばらくの間の眠りです。そして、永遠の光の中で再び目覚めるとき、私たちは、キリスト顔と顔とを合わせてお会いすることになり、信徒同士もまた神を賛美し、手と手をとり合って共に喜びに溢れるでしょう。その喜びを奪い去る者はだれもいません。死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に下さった父なる神に感謝をささげましょう。

   祈 り

  聖なる天の父よ、きょうわたしたちは過ぐる日みもとに召された辺見哲三兄、加藤英治兄、加藤昌子(よしこ)姉を記念して、世に会った日をしのび、またご遺族の上に主の慰めを祈り、礼拝をささげるためにここに集まりました。どうか、み言葉によって主の深いみ旨をさとらしめ、主の慰めとみ恵みとを豊かに与えてください。兄弟、姉妹が世にあったとき、主にある交わりを与えられ、共に主の恵みあずかったことを深く感謝いたします。

  今は主のみもとに受け入れられ、平安と祝福とのうちにあることを信じて、み名をあがめます。また、わたしたちも兄弟姉妹のよい模範にならい、心を尽くして主に仕える者とならせて下さい。救い主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。

 

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