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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

アッシリア小史と歴代王(イスラエルとの関連)

2014-10-08 02:26:13 | 礼拝説教

           ↑ イラクのアッシュール(世界遺産)    

        アッシリア小史と歴代王

  アッシリアがイスラエルを侵略するのは、Ⅳの「新アッシリア時代」、特にアッシリアが世界帝国時代を迎えた時代である。

 Ⅰ 初期アッシリア時代

  アッシリア人はセム系の民族で、紀元前2000年頃、北メソポタミアに都市アッシュールを建設し、都市国家を建設した。アッシュールは、現在のイラク北部、チグリス川中流域にあった都市であり、現在イラク北部、バグダットの北東240キロの町カルア・シルカに位置する。

   (セム系の民族とは?聖書の創世記一〇章には、〝諸民族の起源"が記されています。それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出ました。セム系は西アジヤ、ハム系はアフリカ、ヤぺテ系はヨ―ロッパと大まかな区分になります。                                             セムはおもに、ユダヤ人(ヘブル人)やアラビヤ人や中近東の諸民族の先祖となりました。セム系の人々の肌は、だいたい黄色がかった白色か、褐色をしています。                                                    ハムは、おもにアフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、スリヤ(今のシリア)、小アジア(今のトルコ)あたりの地域に移り住みました。東南アジヤ人もふくみます。ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色がかったうすい褐色まであります。                                                           ヤペテの子孫は、おもにヨーロッパや、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住みました。欧米人やインド人等の先祖となりました。ヤぺテ系は西方系と東方系に分かれます。日本人は東洋系とされています。ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色がかったうすい褐色をしています。)

  アッシリアの国名は、彼らが最初の都を、民族神アッシュールの名にちなんで、「アッシュール神の都」、すなわちアッシュールと名ずけたことに由来する。

    

アシュール神。造形表現では、太陽をかたどった円盤に翼をつけることで表現される。

     配偶神(妻)はイシュタル女神。

  アッシュールはアッシリア帝国形成の基礎となった都市で、アッシリアの最初の首都となり、14世紀後半から紀元前883年まで首都であった。

  国名のアッシリアは、この民族神アッシュールの名にちなんで、「アッシュール神の都」と名づけられたことに由来する。

 ニネベの城門の遺跡(世界遺跡)。紀元1850年から行われたニネベ発掘によろ2万点以上の粘土板文書(楔形文字)が発見された。

  アッカドのサルゴン王(治世:B.C.2350~2295年頃)は

 シュメール(バビロニア南部)とアッカド(バビロニア北部)全土を支配し、メソポタミアを統一し、最初の帝国を築いた。その支配権は地中海東部から、アルメニア、イラン高原に及んだ。また、王はニネベ神殿を建設した。

   初期アッシリア時代は32人の王の名が知られている。

   Ⅱ 古アッシリア時代(紀元前1950年頃から紀元前15世紀頃までを指す。)

  シャムシ・アダト1世(B.C .1813~1781年)は最初の都市国家を建設し、北メソポタミア全域を支配した。主要都市としてニネベやウルビルムが栄えた。

   次世代には、バビロンのハンムラビ王によって征服された。

   紀元前1500年頃からミタンニ王国の属国となった。

   古アッシリア時代は39名の王名が知られている。

  Ⅲ 中アッシリア時代前14世紀初頭あたりから、紀元前10世紀の末頃までの時代を指す。)

   アッシュール・ウバリト1世(B.C.1365~1330年)は独立した国家として強い政治力をもち、ミタンニを攻撃した。その後6代の間にわたって国力は発展した。

   トゥクルティ・ニヌルタ1世(B.C.1244~1208年)

     バビロンを支配した。

   ティグラト・ピレセル1世(B.C.1115~1076年)は、地中海へ進出した。

   アッシュール・ダン2世(B.C.934~912年)は、侵略する半遊牧民のアラム人を鎮圧した。

    中アッシリア時代は27人の王名があげられている。

  Ⅳ 新アッシリア時代前10世紀の末頃から、アッシリアの滅亡までの時代を指す。)

   アダト・ニラリ2世(B.C.911~891年)は征服遠征を再開した。

   アッシュール・ナツィルパル2世(B.C.883~859年)は新アッシリア帝国を建設した。カルフ(=ニムルド)を首都として遷都した。

   シャルマナサル3世(B.C.858~824年)は領土を広げた。イスラエルの王アハブ(B.C.869~850年)と対戦した。 王の死後、数十年にわたって衰退期を迎えた。

   シャムシ・アダト5世(B.C.823~811年)

   アダド・ニラリ3世(B.C.810~783年)は、イスラエルのヨアシュ王(B.C.802~786年)時代の人。

   シャルマナサル4世(B.C.782~773年)

   アシュ―ル・ダン3世(B.C.772~755年)

   アッシュール・ニラリ5世(B.C.754~745年)

  世界帝国時代

   ティグラト・ピレセル3世B.C.745~727年)は大遠征を行い、大帝国となった。イスラエル王ペカのとき、サマリアを攻略した。ユダの王アハズ(B.C.734~728年)時代の人。預言者イザヤが活動した。

   シャルマナサル5世(B.C.726~722年)

   サルゴン2世(B.C.722~705年)は、ニネベを再興し、ニネベの東16キロに新首都コンサーバードを建設した。サルゴン2世はイスラエル王国を720年に滅ぼした

   センナケリブ(B.C.704~681年)は、ニネベに遷都した。701年、エルサレムを包囲し、降伏させた

   エサルハドン(B.C.681~669年)

   アッシュル・バニパル(B.C.668~627年)は、エジプト遠征、B.C.663年、エジプトのテーベを陥落させる。史上初めての全オリエントを統一した。

   アッシュール・エテル・エラニ(B.C.626~624年)

   シン・シャル・イシュクン(B.C.623~612年)612年ニネベ陥落。

   アッシュール・ウバリト2世(B.C.611~609年)ハランに逃れ再興を計るも、609年残存勢力滅亡。

   旧約聖書との関連

 旧約聖書中、列王記の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてイスラエル王国やユダ王国がそれにどのように対応したかが詳しく叙述されている。概略はプル王(ティグラト・ピレセル3世)がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど各地の人間が入植させられたことが記述されている。

   また、イザヤ書の中では主がアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、ナホム書ゼファニヤ書では将来のアッシリアの滅亡が預言される。これらからは当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。さらに、ヨナ書では被征服者から憎しみのまなざしを投げかけられるアッシリアの都ニネベですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。

 

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「ニネベへの報復と、主に身を寄せる者への恵み」(ナホム書)

2014-10-05 19:44:31 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12             TEL:022-358-1380   FAX:022-358-1403

     日本キリスト教 富谷教会 週報

 聖霊降臨節第十八主日   2014年10月5日(日)   5時~5時50分 

            礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  504 (主よ、み手もて)

交読詩編   46(すべての民よ、手を打ち鳴らせ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ナホム書1章1~14節

説 教  「ニネベへの報復と、主に身を寄せる者への恵み 辺見宗邦牧師

賛美歌(21)457(神はわが力)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

    本日の聖書 ナホム書1章7節

「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」

     本日の説教

 「ニネベについての託宣。エルコシュの人ナホムの幻を記した書。」(ナホム書1章1節)

  ナホム書は、第1章1節、第2章9節、第3章7節に、<ニネベ>の名が出ているように、紀元前612年に起こったアッシリア帝国の首都ニネベの陥落を主題としています。

  <ニネベ>は現在のイラクの北部、チグリス川を挟んでモスル市の対岸に位置しています。ニネベは古い町でしたが、アッシリア第11代王サルゴン2世によって再興され、その後継者センナケリブが紀元前8世紀に,王都としました。彼に続くエサルハドン王とアッシュル・バニパル王(在位668~627)の時代、ニネベはオリエントの政治・文化の中心地として栄えました。

  アッシュル・バニパル王の死後、帝国は衰退し、紀元前612年、ニネベはメディアと新バビロニアの連合軍によって破壊されました。紀元(後)19世紀以来ニネベは発掘され、宮殿跡や粘土板などが発見されています。

  預言者ナホムのへブライ語名は<ナフ-ム>で、「慰め(る者)」という意味です。出身地のエルコシュは、ガリラヤ説(カペナウムは「ナホムの町」の意)やメソポタミヤ説(ナホムを北イスラエル滅亡時のアッシリアによる捕囚民の末裔され、ナホムの墓がニネベの近くにあるする説)がりますが、エルサレムの南、ユダの地にあった町とする説をとりたいと思います。

  ナホム書が書かれた年代は、3章3節で、アッシリアのアシュル・バニパル王によるエジプトのテ―ベの占領(紀元前662年)が語られているので、紀元前662年から、ニネベの陥落(612年)の直前までの年代と推測されます。

  ナホムは極めて愛国的な預言者の一人であったと考えられ、その預言がほとんどアッシリアに対する激しい審判の言葉になっており、特に自国のユダとその国民に対する回心や神の裁きにはふれていません。ほぼ同時代の預言者エレミヤ(B.C.627~587年)とは対照的な預言者です。

  預言の目的は、アッシリアの暴虐に満ちた軍国主義の政治支配の末路を描き、それと同時に、最終的には正義をもって世界と歴史を支配する神の悪に対する激しい刑罰と、被抑圧者に対する救いとを明らかにするために書かれたものと言えます。

  ナホム書は3章からなる短い書です。あまり説教でとりあげられない書ですが、神のみことばとして、メッセージを受けとりたいと願いました。聖書を開きながら、以下の説明をお読みいただければ幸いわいです。

  「主は熱情の神、報復を行われ方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し、仇に向かって怒りを抱かれる。主は忍耐強く、その力は大きい。主は決して罰せずにはおれない。」(ナホム書1章2~3節a)

 <熱情の神>とは、異教礼拝を禁止する神を表現しており、「報復」とは、ここではイスラエルの敵、アッシリアへの<怒り>による報復です。

 <主は忍耐強く>とありますが、一見<激しく怒られる>とは矛盾するように思われますが、イスラエルの生ける神の伝統的な表現であり、同時に仇に報いられる神でもあることを強調しています。

    生きたまま皮をはがれる捕虜が描かれた石の浮彫。アッシュール・ナツィパル2世(B.C.883~859年)は次のように言っています。「余は市の門に面して柱を立てた。そして主だった人すべての皮をはぎ、その皮を柱に巻きつけた。ある者はクイに刺して柱の上につき立てた。そして役人どもの手足を切り落とした。……そのうちの多くの捕虜を焼き殺し、ある者からは手と指を切り落とし、ある者からは鼻と耳をそぎ落とし、多くの者の目をえぐり出し、若者と娘たちを火の中に投げ込んだ。」これは、王宮の門に彫り込まれた、彼による碑文です。

  アッシリアは歴史上に見る帝国の中で、最も残虐な暴力行為を行った国として知られています。アッシリア帝国は軍事強国でした。偉業を描写したレリーフは残虐性と強欲を示しています。極端に残虐な仕方で敵を責め苛(さいな)む事を誇りとしました。ナホム書3章10節に、アッシリア人がエジプトで行った残虐な行為を記しています。

 「彼女もまた捕えられ、捕囚として連れ去られた。乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ、貴族たちはくじで分けられ、大いなる者も皆、鎖につながれた。」(3:10)

 ナホムは、ニネベの罪を三つの比喩を用いて描きます。一つは、2章12~13節にある獅子の比喩です。

  「獅子の住みかはどこにいったのか。それは若獅子の牧場だった。獅子がそこを去り、雌獅子と子獅子が残っていても、脅かすもの何もなかった。獅子は子獅子のたに獲物を引き裂き、雌獅子のために絞め殺し、洞穴を獲物で、住かを引き裂いた肉で満たした。」(2:12~13)

  獅子はニネベの守護神イシュタールを象徴です。この嘲笑歌は、暴虐無慈悲な侵略の罪を、ニネベという獅子の洞穴に棲息する獅子の家族のあくことを知らぬ略奪と虐殺として、皮肉をもって讃えるのです。

  次に3章1節で、ニネベを流血の町としています。「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りで覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない。」(3:1)

 ニネベを多くの国や町を滅ぼした<流血の町>として罪をあばいています。

 もう一つは、3章4節の遊女の比喩です。

  「呪文を唱えるあでやかな遊女の果てしない淫行のゆえに、彼女がその呪文によって諸民族を淫行によって国々をとりこにしたゆえに…」

 ナホムがニネベを遊女たとえるのは、そこにある女神イシュタールが好戦的な女神で、王に戦勝を約束し、豊饒と多産の神でもあり、このような女神を中心とするアッシリアの文化を遊女にたとえているのです。アジアの諸国がアッシリアの軍門に下ったのは、強大な軍事力によるのみでなく、大帝国の強大な権力にもとずく壮大な富と文化によるのです。この諸国民を魅了した文化を、ナホムはあでやかな遊女の淫行と巧みな誘惑を<呪文>にたとえ、いかがわしい、遊女の欺きとして嘲笑的に、詠(うた)っているのです。

 1章8~10節はニネベを陥落させるメディア・バビロン同盟軍の攻撃を指します。

 「みなぎる洪水で逆らう者を滅ぼし、仇を闇に追いやる。お前たちは主に対して何をたくらむのか。主は滅ぼし尽くし、敵を二度と立ち上がれなくされる。彼らは酒に酔いしれ、絡み合った茨のようになっているが、乾ききったわらのように焼き尽くされる。」(1:8~10)チグリス川の増水も手伝って、ニネベが陥落したことを告げています。9節に<お前たちは>とありますがニネベのことか、ユダのことか判断が分かれますが、ニネベと解したいと思います。10節<酒に酔いしれ>とは、ニネベの人々の傲慢さを表しています。

 12節「主はこう言われる。『彼らは力が満ち、数が多くても、必ず、切り倒され、消えうせる。わたしはお前たちを苦しめたが、二度と苦しめはしない。』」

  12節の<お前たちは>とはユダを指します。

  14節「主はお前について定められた。『お前の名を継ぐ子孫は、もはや与えられない。』」14節の<お前は>は、転じてニネベへの言葉になり、アッシリアの王を指しています。

  2章2節「襲いかかる敵がお前に向かって上ってくる。砦を守り、道を見張れ。腰の帯を締め、力を尽くせ。」(2:2)2章2節の<お前に向かって>も、ユダの王ゼデキヤと解し、<敵>はニネベの王アシュル・バニパルを指すと解したいと思います。

 2章の4節、5節は、メディア・バビロンの連合軍のことを詠ています。「勇士の盾は赤く、戦士は緋色の服をまとう。」(2:4)

 2章6、7節「将軍たちは召集されるが、途上でつまずく。人々は城壁へと急ぎ、防御車を据える。」(2:6,7節)<将軍たち>、<人々>は攻撃側か、防御側か明白ではりませんが、ニネベの防御側と解したいと思います。

 8節「王妃は引き出され、…侍女たちは…胸を打つ。」 <王妃>はニネベの守護神イシュタルと解し、(侍女>は巫女(みこ)を指します。

 10節の「銀を奪え、金を奪え。その財宝は限りなく、あらゆる宝物で満ちている。」は、ニネベが他国から略奪した財貨が、今度は逆にその敵にとっての豊富な獲物となります。

 3章6節の「わたしは、お前に憎むべきものを投げつけ…」の<憎むべきもの>とは汚物を指します。

 3章8~9節「お前はテーベにまさっているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ、海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。クシュはその力、エジプトには限りない力があり、プト人とリビア人もテーベを助けていた。」

 1400年の間エジプトの都であったテ―ベは、アッシリアのアッシュル・バニパルによって紀元前663年に滅ぼされました。いま預言者はこのテ―ベを滅ぼしたアッシリアに向かってお前にもまた同じような滅びがおよぶことを告げます。テ―ベの遺跡は、現在カルナック神殿やルクソール神殿にその栄光の影を見ることができます。テーベを中心とした<クシュ(エチオピア)>、プト(ソマリア)>、<リビア>などがアッシリアの支配下に置かれたのです。

  3章11節「お前もまた、酔いつぶれて我を失う。」の<お前>とはニネベのこと、<酔いつぶれて>は、助ける者もなく、無防備の状態を指します。

 3章17節の「お前を守る部隊は、移住するいなごのように、お前の将軍たちは、群がるいなごのように…」とは、ニネベの将軍や部隊を突然飛び立ついなごの大群にたとえています。

  3章18節「アッシリアの王よ、お前の牧者たちはまどろみ、貴族たちは眠りこける。」「まどろみ、眠る」とは、死ぬことの婉曲(えんきょく)表現です。

  3章19節「お前のうわさを聞く者は皆、お前に向かって手をたたく。」アッシリアの滅び、ニネベの陥落を人々が手をたたいて喜んでいることを伝えています。

  ヨナ書の<ヨナ>がニネベに宣教活動をしたのは、北イスラエル王国のヤロブアム二世(B.C.786~746年)の時代でした。ナホムの預言活動はヨナの時代から100年後のことになります。すでにアッシリアによってイスラエル王国は滅亡(紀元前721年)していました。

  ヨナ書のメッセージの内容は、神の愛が選民にのみ向けられているのではなく、創造されたすべてのもの、アッシリアのニネベでさえもその愛の対象であることを、ユーモアを駆使して語ったのです。

  ヨナの時代のあと、アッシリアは次々に周りの国々を支配し、巨大な帝国を築きました。アッシリア帝国がそれまで続いてきたのは、ヨナの宣教によって、一時的にではあれ、罪を悔い改めたので、神の恵みにより、ニネベは裁きの審判を免(まぬが)れたのです。そのことに感謝もせず、高ぶり、真の神ヤハェをあざむくかのように、北イスラエルをBC721年に滅ぼしたのです。さらに南のユダ王国を圧迫し、ばく大な貢ぎ物をとって苦しめたのです。ニネベを首都とするアッシリア帝国に対し、神は、ナホムを通し、裁きを予告したのが、ナホム書のメッセージです。

 1章7節に、「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」とあります。神の怒りは神に背く者の上に下りますが、神に信頼する者に対しては、まことに恵み深い方まのです。聖書の証しする神は、苦悩と痛みの時を、神は避けどころとなって、生き抜く力をわたしたちに与えられる方であることを伝えています。詩篇46篇1、2節の、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいました、助けてくださる。」とあるとあるように、神は信頼できる力強い方です。キリストを信じてこられた方は、ここことを身をもって体験しているはずです。

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ミカ書 「主があなたたちに求めておられるもの」 

2014-09-28 19:54:23 | 礼拝説教

      ↑  預言者たちの出身地  地図の左下に、「モレシュト・ガト」と記しているところが、ミカの出身地「モレシェト」です。

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

      日本キリスト教 富谷教会 週報  

聖霊降臨節第十七主日   2014年9月28日(日)  5時~5時50分 

       礼   拝   

               司会 永井 慎一兄

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  351 (聖なる聖なる)

交読詩編  145(わたしの王、神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ミカ書6章6~8節

説 教 「主があなたたちに求めておられるもの 

辺見宗邦牧師

賛美歌(21)460(やさしき道しるべの)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

          次週礼拝 10月5日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

               説教題   「流血の町に対する主の怒り」

               聖 書   ナホム書1章1~14節

               交読詩篇 46 讃美歌(21)504 457 24

   本日の聖書 ナホム書6章6~8節 

  6 何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

  7 主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

  8 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

      本日の説教

  ミカ書の1章1節は、次のような表題で始まります。「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである。」(1章1節)

  ミカは女性の名ではなく、男性の名です。ミカヤまたはミカヤフ(だれが主のようであり得ようの意)の短縮形です。

  ミカの出身地はエルサレムの南西約35キロにある<モレシェト>です。彼が預言者として活動したのは、南ユダ王国のヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の治世中で、紀元前8世紀後半の時代です。それは北イスラエル王国で活動したアモス、ホセアの時代であり、南ユダ王国で活動したイザヤと同時代です。

  ヨタム王の前の王は、南王国ではウジヤ王(治世45年間)、北王国ではヤロブアム2世(治世41年間)の時代で、両国とも長い安定した治世のもと、経済的に繁栄し、領土も拡張しました。しかしその後、アッシリア帝国の侵略によりユダ王国も北イスラエル王国も脅威にさらされ、滅亡の危機に直面しました。

  両王国とも社会は腐敗し、罪と不正が満ち、貧富の格差が増大しました。物欲に支配された民の生活は、貧しい者ややもめなどの社会的弱者を顧みることなく、自己中心と物質主義にとらわれたものでした。そしてそれらの堕落と退廃の根底にあったのは、カナンの異教宗教を取り込んだ偶像礼拝の罪にありました。

ミ カの預言活動は、イザヤと同様に正面切って神のさばきの警鐘を鳴らし、民に悔い改めを迫る力強いものでした。ミカは、上流階級出身のイザヤと違って農村出身だったので、都市の富裕層が地方の農民の土地を奪う経済的不公正や搾取を指摘しています(2:2~5)。

  社会から公正さが失われたことは、人々が神を捨てたしるしでした。神への真の忠誠は失われ、神に守られているという偽りの感覚だけの信仰でした(3:11)。

  ミカは、イスラエルの民、ユダの人々が神との特別な契約の民であることを思い起こさせ、サマリアが偶像礼拝の罪のゆえに神の裁きによって滅びること、またエルサレムも不正義のゆえに神の審判を逃れられないことを予言しました。人々に神に対する責任を悟らせ、罪を悔い改めさせようとしたのです。神は裁きを告げるが、破壊し、滅ぼすことが目的なのではありません。望んでいるのは悔い改めです。苦しみの経験から悟ることを期待しているのです。そのような中でミカは最終的な希望を、やがて来たるべき救い主メシヤの預言に託すのです。

 ついに北王国は、紀元前722年に、首都サマリアが陥落し滅亡しました。南王国は防備の町々が占領され、アッシリアの属国となり、かろうじて存続していました。

 ミカの活動は、サマリアの陥落の前の紀元前725年頃から、紀元前701年頃までの24年間位と予想されています。 

   ミカ書の最終的な編集は、ミカ自身から数世代を経た捕囚期ないしそれ以後と考えられています。紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落させられたときに、ミカの滅亡預言は捕囚の民にとって重い意味を持ち、苦難の中にあって、歴史の主である裁きの主である神への信頼こそが、神から新たな救いを受ける道であるとするミカ書の編集がなされたようです。

  ミカ書の構造は四つに区分することができます。①1~3章はサマリアとエルサレムに対する裁きの預言、②4~5章は救いの約束、③6~7章7節は再び裁きの預言、④7章8節~20節は救いの約束の預言です。ミカ書では、来るべき破滅の日の預言とその後の希望の日の預言が交互に並べられています。

  諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる。見よ、主はその住まいを出て、降り地の聖なる高台を踏まれる。山々はその足もとに溶け、平地は裂ける火の前の蝋のように斜面を流れ下る水のように。これらすべてのことはヤコブの罪のゆえにイスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何かサマリアではないか。ユダの聖なる高台とは何かエルサレムではないか。わたしはサマリアを野原の瓦礫の山とし……(1章2~7節)

 主はまず、諸国の民に耳を傾けるように命じます。世界の支配者である主は、全世界の民を裁く審判者として地上に降りてこられます。神の恐るべき出現と裁きがヤコブ・イスラエル、すなわち北王国に向けられていることが宣言されます。北王国の都であるサマリアをその偶像崇拝のゆえに撃ち、そこを廃墟とする。<聖なる高台>とは、民が異教の神々を礼拝し、主との契約を破った罪を表しています。

  しかし、主の裁きはイスラエルにとどまりません。南王国ユダとエルサレムは、罪のゆえに同罪です。サマリヤの滅亡はミカにとって深い痛みあり、悲しみです。サマリアを襲った破壊は、ユダをも巻き込みエルサレムにまで達します。

  「このため、わたしは悲しみの声をあげ、泣き叫び、裸、はだしで歩き回り、山犬のように悲しみの声をあげ、駝鳥のように嘆く。まことに、痛手はいやし難くユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。」(1章8、9節)

  10節からは、神の裁きを受けるユダの町々の名が語られます。これらの町々が今のどの町々に相当するのかわかりませんが、おおよそミカの町であるモレシェトから半径14キロの円を描く形で点在している町々が取り上げられています。

  5章では、キリストがベツレヘムに誕生することを預言しています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(5:2節)。ベツレヘムは、ユダ部族の中では一番小さく、実際、ユダの防衛のための町のリストにも掲載されていません(列王記下11:5~12)。キリスト誕生のための場所として神が選ばれるのは、最も小さな場所でした。「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ」(5:4節)。この新しい王が主の力と威光によって民を導きます。        

1章2節で「諸国にの民よ、皆聞け」と言われた主は、3章1節で「イスラエルの指導者たちよ、聞け」と言われ、そして最後に、6章1節で「聞け、山々よ、主の告発を」と呼びかけます。主とイスラエルの契約締結の証人として「天」と「地」が呼び出されたのです。主は訴訟の相手に<わが民>と呼び掛け、答弁をうながします。

  主がかつてイスラエルに行った救いの恵みの業に対して求めているのは、主との愛の応答に基づく関係です。多くのささげものや最も大切な長子のささげものさえも主に対する適切な応答ではありません。宗教的儀式を、念入りに、また盛大に行うことでもなく、異教的、狂信的な祭りを行うことでもありません。ミカは告げます。

 「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。(6章8節)

  主が何よりもその民に求めておられることは、祭儀ではなく、「公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」です。これを可能にするのは神の恵みによって罪から解放され、まことの自由を与えられ、恵みの中を歩むことです。

  ミカ書は神への祈りをもって閉じます。

「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者にいつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを、アブラハムに慈しみを示してください。その昔、我らの父祖にお誓いになったように。(7:18~20)

  神のご本質は慈しみ、憐れみ、愛です。神の怒りは発動されるが、永久に続くものではありません。神は罪、咎(とが)を許す方です。厳しい裁きで始まったミカ書は、ついに神の慈しみを伝えて終わります。

 追記

  ミカより100年後、エルサレム滅亡を預言したエレミヤ(627~587)が死刑に値する罪を犯したとして民に殺されそうになったとき、数人の長老が立ち上がって、モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、エルサレムの滅亡を預言し、王も民も主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は災いを思い直され、アッシリアに包囲されたエルサレムが陥落をまぬがれたと語り、エレミヤを弁護しました。

 「26:7祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが主の神殿でこれらの言葉を語るのを聞いた。 26:08エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。「あなたは死刑に処せられねばならない。 26:09なぜ、あなたは主の名によって預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。 26:10ユダの高官たちはこれらの言葉を聞き、王の宮殿から主の神殿に上って来て、主の神殿の新しい門の前で裁きの座に着いた。 26:11祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました。」 26:12エレミヤは高官たちと民のすべての者に向かって言った。「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。 26:13今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。 26:14わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。 26:15ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」 26:16高官たちと民のすべての者は、祭司と預言者たちに向かって言った。「この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名によって語ったのだ。」 26:17この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。 26:18「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり
エルサレムは石塚に変わり神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。 26:19ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」(エレミヤ書26章
7~19節)。

  ミカがヒゼキヤ王に影響を与えたとされるエルサレム滅亡の預言は、ミカ自身の預言とされている1章から3章までの中の、特に3章に記されている指導者たちの罪を指摘する部分で言われています。

  「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか災いが我々に及ぶことはない』と。それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる(ミカ書3章9~12節)

  このミカの預言が、ヒゼキヤ王を悔い改めさせ、100年後の人々にも語り伝えられ、預言者エレミヤの命を救うことになったのです。

 

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 「エサウとヤコブ兄弟の子孫の争い」 オバデヤ書1章10-18節

2014-09-21 22:47:17 | 礼拝説教

   ↑ ぺトラ遺跡は現在ヨルダンのユネスコ世界遺産になっています。

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

聖霊降臨節第十六主日   2014年9月21日(日)    5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  220 (日かげしずかに)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   オバデヤ書1章10~18節

説 教 「エサウとヤコブ兄弟の子孫の争い  辺見宗邦牧師

賛美歌(21)513(主は命を)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

             次週礼拝 9月28日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

                  説教題  「終わりの日の約束」

                  聖 書   ミカ書4章1~8節

                 交読詩篇 18  讃美歌(21)351 460 24

本日の聖書 オバデヤ書1章10節~18節

10兄弟ヤコブに不法を行ったので

お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。

11お前が離れて立っていたあの日

異国の者がエルサレムの財宝を奪い

他国の者がその門に入り

エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に

お前も彼らの一人のようであった。

12兄弟が不幸に見舞われる日に

お前は眺めていてはならない。

ユダの人々の滅びの日に

お前は喜んではならない。

その悩みの日に

大きな口をきいてはならない。

13その災いの日に

わが民の門に入ってはならない。

その災いの日に

苦しみを眺めていてはならない。

その災いの日に

彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。

14逃げて行く者を殺すために

別れ道で待ち伏せしてはならない。

その悩みの日に

生き残った者を引き渡してはならない。

15主の日は、すべての国に近づいている。

お前がしたように、お前にもされる。

お前の業は、お前の頭上に返る。

16お前たちが、わたしの聖なる山で飲んだように

すべての国の民も飲み続ける。                                    

彼らは飲み、また呑み尽くす。

彼らは存在しなかった者のようになる。

17しかし、シオンの山には逃れた者がいて

そこは聖なる所となる。

ヤコブの家は、自分たちの土地を

奪った者の土地を奪う。

18ヤコブの家は火となり

ヨセフの家は炎となり

エサウの家はわらとなる。

火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。

エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と

まことに、主は語られた。

          本日の説教

  オバデヤ書は旧、新約聖書を通じて最も短い、1章21節の書です。ちなみに新約聖書のフィレモンへの手紙は25節です。前半の1節~18節はエドムに関する預言で、滅亡とその理由を挙げています。後半の19節から21節はイスラエルの勝利とその領土の回復を告げています。

  成立年代はその内容などから紀元前586年のエルサレムの崩壊直後、エドムも滅びた頃とされています。

 1章1節に「オバデヤの幻」とありますが、預言者オバデヤが神から啓示された幻を記したものですが、オバデヤについての詳細は知られていません。

オバデヤ書は全世界が神の目的に向かい、神の支配と神の義が人間の歴史の中にあることを教えています。

  「オバデヤの幻。我々は主から知らせを聞いた。使者が諸国に遣わされ『立て、立ち上がってエドムと戦おう』と告げる。主なる神はエドムについてこう言われる。『見よ、わたしはお前を諸国のうちで最も小さいものとする。お前は、大いに侮られる。お前は自分の傲慢な心に欺かれている。岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け『誰がわたしを地に引きずり降ろせるか』と心に思っている。たとえ、お前が鷲のように高く昇り星の間に巣を作ってもわたしは、そこからお前を引き降ろすと、主は言われる。」(オバデヤ書1章1~4節)

   エドムと戦うようにと使者が国々に送られます。これらの使者を送ったのは主なる神です。エドムの傲慢な心をくじくためでした。エドム人は、「岩の裂け目に住み、高い所に住みかを設け『誰がわたしを地に引きずり降ろせるか』と心に思っている」(3節)、からです。

  エドムの古い要塞は(セイル山やペトラなど)が高い堅固な岩と砦であったので、彼らに高慢と誤った安全感があったのです。エドムはパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域で、「セイルの地」(創世記36:30)とも呼ばれていました。エドムの二大都市は首都のボズラとペトラです。

      ぺトラ遺跡は現在ヨルダンの世界遺産になっています。 新世界七不思議の一つになっています。

                            

 アブラハムの子イサクに双子、エサウとヤコブが生まれたが、そのエサウの子孫がエドム人です。 ヤコブは神からイスラエルという名を与えられ、その子孫がイスラエル人です。

  兄のエサウと弟のヤコブの確執は、母リベカの胎内にいたときから始まりました(創世記25章19~26)。エサウは生まれたとき赤かったので<エサウ>と名付けられました。ヤコブという名前は、出生のとき、兄の<かかと「アケブ」>をつかんでいたことから、「かかと」という意味のことばの原語「アケブ」にちなんで「ヤコブ」と命名されました。

  エサウが長子の権利をヤコブに譲ったのは、空腹のときヤコブの作った赤いレンズ豆の煮物と引き換えにしたためでした。「その赤いもの(アドム)を食べさせてほしい」と言ったことで、彼の名は<エドム>とも呼ばれるようになりました(創世記25章30節)。彼の子孫が「エドム」と呼ばれるようになったのはこのためです。

  エサウはその後、後悔して、ヤコブに殺意を抱きます。その兄から逃れて伯父ラバンの住むハランまで旅をしたのがヤコブです。しかし、二人は20年後、ぺヌエルで再会したとき和解しました(創世記33章)。エサウの子孫のエドムは、創世記36章によると大きな国になりました。

  その後、ヤコブの時代から500年以上も後のこと、エドム人は、モーセに率いられて約束の地に向かうイスラエル人が領土を通過することを拒み、戦争も辞さない態勢で対峙しました。(民数記20:14~21)。主は、荒野の旅をするモーセたちに対して、「エドムに立ち向かうな。エドムの地はあなたがたに与えていない。そして彼は兄弟なのだから、三代目のエドム人は集会に加えるようにしなさい。」と命じられていました(申命記2:4~5、23:7~8)。

  しかし、その後イスラエルとエドムの両民族の間に度々紛争がありました。イスラエルの最初の王サウルもエドムを攻めているし(サムエル記上14:47)、 ダビデ王もエドムを支配下においています(サムエル記下8:13~14)。 ソロモン王の時代にはエドムの反乱がありました(列王記上11:14~22)。

  ソロモンの死後も、エドムはしばしイスラエルの敵となり、ユダ王国のヨラム王の治世(歴代誌下21:8)、アマツヤ王の治世(歴代誌下25:11-12,23-24)、アハズ王の治世(歴代誌下28:16-21)、ゼデキヤの治世(歴代誌下36:11-21)に大きな略奪を繰り返しました。

  「お前と同盟していたすべてのものが、お前を国境まで追いやる。お前の盟友がお前を欺き、征服する。お前のパンを食べていた者がお前の足もとに罠を仕掛ける。それでも、お前は悟らない。」(7節)

  アラビアから侵入してきた遊牧民族のナバタイ人が、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していました。エドムはナバタイと組んで、一時マケドニヤの侵攻を阻止したようですが、紀元前168年にナバタイはペトラを首都とした王国を築きました。(ユネスコ世界遺産のペトラ遺跡はナバタイ人が築いたものです。)エドム人はナバタイによって追われ、ネゲブ砂漠へと移って行っていきました。エドム人が住むようになった地方は、イドマヤと呼ばれました。ヘロデ大王はそのイドマヤの出身です。

  「その日には必ず、と主は言われる。わたしはエドムから知者を、エサウの山から知恵を滅ぼす。(8節)

  神の裁きの時、学問が盛んであったエドムを滅ぼすというのです。 

  「テマンよ、お前の勇士はおびえる。彼らはひとり残らず殺され、エサウの山から取り去られる。(9節)

  <テマン>は、エドムの北部地域を指します。ペトラから少し東にあり、学術都市としての誇りを持っていました。テマンはエサウの息子エリファズの子の名前から来ています(創世記36:11)。ヨブと議論した友人の知者エリファズはエドム人でした。(ヨブ記2:12)

 10節から15節で、エドムの滅亡の理由として、紀元前586年エルサレム陥落当時のエドムの行動を過去にさかのぼって糾弾(きゅうだん)しています。

  「兄弟ヤコブに不法を行ったので、お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。お前が離れて立っていたあの日、異国の者がエルサレムの財宝を奪い、他国の者がその門に入り、エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に、お前も彼らの一人のようであった。」(10、11節)

  「不法を行った」とは、エドムが、エルサレムが陥落した際に兄弟ヤコブ(ユダの民)に何のあわれみを施さずに、敵対者と同じ態度をとり傍観したばかりか(12節)、どさくさに紛れてユダの財宝をかすめ取り(13節)、他国人の攻撃を逃れて来る避難者をかくまわず、殺したり、敵の手に引き渡したり(14節)と卑劣な行為を働いたことを言っています。ヤコブの時代(B.C.1800年頃)から、エルサレム陥落(B.C.586年)までは、すでに1200年も経っていますが、エサウの子孫のエドムはヤコブの子孫のユダの民に対して兄弟民族としての親愛の情も憐憫(れんびん)もなく、敵対関係にあったと言えます。

  「とこしえに滅ぼされる」とあるように、エドム人は、山地からナバタイ人によって追い出され、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノス1世の時代、紀元前150年にイドマヤの滅亡、ユダへの同化で、絶滅しました。

  「兄弟が不幸に見舞われる日に、お前は眺めていてはならない。」と戒めたあと、七回も<……してはならない>と繰り返し、種々の戒めをしています。

  「ユダの人々の滅びの日に、お前は喜んではならない。その悩みの日に、大きな口をきいてはならない。その災いの日に、わが民の門に入ってはならない。その災いの日に、苦しみを眺めていてはならない。その災いの日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。逃げて行く者を殺すために、別れ道で待ち伏せしてはならない。その悩みの日に、生き残った者を引き渡してはならない。」( 12~14節)

   17節から18節までは、エドムの運命逆転が語られます。

  「『しかし、シオンの山には逃れた者がいて、そこは聖なる所となる。ヤコブの家は、自分たちの土地を奪った者の土地を奪う。ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる』とまことに、主は語られた。」(17~18節)

  イスラエルがバビロニア軍によってエルサレムを破壊され、 住民がバビロンに捕囚として移送させられてから、エドム人は以前にもましてネゲブ砂漠、 さらにユダの山地へと移り住むようになり、弱体化したユダの町々や住民を襲い、悩ませました。このようなこともあって、聖書にはエドム人に対しては厳しい預言がなされたのです(オバデヤ1:1~18の他に、アモス1:11~12、エゼキエル25:12~14、エレミヤ49:7~22、哀歌4:21)。

「ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家はわらとなる。」とは、<火><炎>が神の顕現、特にここでは神の怒りを表し、神の民がわらに等しいエサウの家、エドムを燃やす、と主は語られたと述べています。

  19節~21節は、イスラエルの回復が語られます。「ヤコブの家は、その領地を所有する」(17節)は、以前自分たちのものだった土地が回復されることを語り伝えています。つまり、イスラエルは捕囚の民として連れ去られ、聖地は荒れるままにされていたが、イスラエルはエドムのように滅亡してしまうのではなく、自分の土地を回復し、さらには、「ペリシテ人の国」や「エサウの山」つまりエドムをも支配することだろうと、預言されています。

   私たちは憐れみを閉ざさないこと、たとえ自分の敵であってもその不幸を喜ばないことが大切です。自分の敵に災いが下ったら、それを自分の恨みを発散させて喜ぶのではなく、神の復讐のことを思って、かえって神を恐れるのです。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』(ローマ12:19)

 現在シリアにおいてアラブ民族同士の戦争が続いています。それに加わる<イスラム国>という名のテロ軍団の脅威が起きています。またそれに加わる外国人がいます。一日も早くこの国際紛争が終結し、平和な世界が実現することを祈り、願わずにはおられません。

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「ユダヤ人の絶滅を救った王妃エステル」 エステル記7章1ー10節

2014-09-14 23:23:17 | 礼拝説教

              ↑ ペルシア帝国が支配した領土

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

 聖霊降臨節第十五主日   2014年9月14日(日)    5時~5時50分 

      礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 412(昔、主イエスの)  

交読詩編   67(神がわたしたちを憐れみ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   エステル記7章1~10節

説 教  「ユダヤ人の絶滅を救った王妃エステル  辺見宗邦牧師

賛美歌(21)512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

      本日の聖書

1王とハマンは、王妃エステルの酒宴にやって来た。2この二日目の日も同様に、ぶどう酒を飲みながら王は言った。「王妃エステルよ、何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」 3「王よ、もしお心に適いますなら」と王妃エステルは答えた。「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。 4私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」

5クセルクセス王は王妃エステルに、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と尋ねた。 6エステルは答えた。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。」ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。 7王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。

8ハマンがエステルのいる長いすに身を投げかけているところへ、王宮の庭から王が酒宴の間に戻って来た。王は言った。「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から発せられるやいなや、人々はハマンの顔に覆いをかぶせた。 9宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。 10こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。

     本日の説教

  エステル記はエステルを主人公とした物語です。物語の背景は、バビロンからユダヤ捕囚民を解放したペルシアの王・キュロス二世から数えて5代目の王クセルクセス一世(紀元前485~465頃)の時代です。エルサレムから遠く離れた東方の離散の地で、ユダヤ人が直面した絶滅の危機が物語となっています。ペルシアの首都スサで起こった出来事で、主の助けにより、予期せぬ運命の逆転で、ユダヤ人は危機を脱することが出来ました。それは、そのまま歴史的な事実ではありません。この書は紀元前二世紀後半に著されたと推定されています。

  今日の聖書の個所7章までの物語のあらすじをお伝えしましょう。

 「クセルクセスの時代のことである。このクセルクセスは、インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であった。 そのころ、クセルクセス王は要塞の町スサで王位につき、その治世の第三年に、酒宴を催し、大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族および諸州の高官たちを招いた。(1章1~3)

   1章は、ぺルシアの王クセルクセスが催した酒宴の様子からはじまります。<スサ>はバビロンの東北東およそ300㌔にあります。現在イランの首都テヘランからペルシア湾に南下する途中です。<要塞スサ>は、首都スサとは区別された王宮ある所です。<クシュ>はナイル川上流に広がる地方のことを指します。

 クセルクセス王はスサで大酒宴を催し、王妃ワシュティが招待客の前に現れることを望みました。ワシュティはそれを拒んだので、王妃の座から退けられました。

  2章は、ワシュティに代わる新しい王妃を探す場面です。

「要塞の町スサに一人のユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシュ、シムイ、ヤイルと続くベニヤミン族の家系に属していた。キシュは、バビロン王ネブカドネツァルによって、ユダ王エコンヤと共にエルサレムから連れて来られた捕囚民の中にいた。モルデカイは、ハダサに両親がいないので、その後見人となっていた。彼女がエステルで、モルデカイにはいとこに当たる。娘は姿も顔立ちも美しかった。両親を亡くしたので、モルデカイは彼女を自分の娘として引き取っていた。(2章5~7)

 捕囚民であったユダヤ人の子孫のモルデカイとその養女のエステルが紹介されます。このエステルが王妃の位に就きます。エステルはモルデカイに命じられていたので、自分の属する民族と親元を明かしませんでした(2:20)。

  3章、「その後、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを引き立て、同僚の大臣のだれよりも高い地位につけた。王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。王宮の門にいる役人たちはモルデカイに言った。『なぜあなたは王の命令に背くのか。』来る日も来る日もこう言われたが、モルデカイは耳を貸さなかった。モルデカイが自分はユダヤ人だと言っていたので、彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。ハマンは、モルデカイが自分にひざまずいて敬礼しないのを見て、腹を立てていた。」(3章1~5)

  モルデカイがハマンに敬礼をしなかったのは、ハマンがアガク人だったためと思われます。ハマンは、滅ぼし尽くされるはずのアマレク人の王アガグの子孫だからと思われます(滅亡の預言:民数記24:20)。王に次ぐ地位にあった大臣ハマンは自分に対して礼を欠くモルデカイがユダヤ人であることを知って、ユダヤ人撲滅を企み、王に進言します。

  「お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません。そのままにしておくわけにはまいりません。もし御意にかないますなら、彼らの根絶を旨とする勅書を作りましょう。」(3:8~9)

 ここに離散したユダヤ人が独特な民族であることが記されています。「独自の法律」とは、旧約聖書に記されている律法です。「王の法律に従いません」は、ハマンの誇張した表現です。モルデカイは、王の命じたハマンに対する敬礼は拒否しましたが、それは「王の法律」ではありませんでした。

 ハマンは、モルデカイ一人を討つだけでは不十分だと思い、クセルクセスの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうとしました。その実行の日をくじでアダルの月の十三日と決めました。<アダルの月>はバビロニア暦の第12の月、2月~3月にあたります。

  4章では、モルデカイが事の一部始終を知ったときの苦悩から始まります。モルデカイは、「衣服を裂き、粗(あら)布(ぬの)をもとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫びをあがた」とあります。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こり、「多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」とあります。(4:1~3)

 モルデカイは王宮にいる王妃エステルにこのユダヤ民族の危機を知らせ、ハマンの企画の撤回を王に願うよう指示しました。

  エステルからの返事では、「王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる」と定められており」、王の召しがなければ、王妃でも近づくことはできないとのことでした。

  モルデカイは再び言い送り、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と伝えました。

  エステルはモルデカイに返事を送りました。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(4:16)

  5章では、エステルはその機会を求めて、まず王とハマンを自分の酒宴に招き、またその翌日も酒宴に招くことにしました。

  6章では、その間にモルデカイは、かつて王の暗殺計画を知り、通報したということで(2:21~23)、それを思い出した王によって、ハマンの思惑とは逆に、大いに賞賛されました(6:1~11)。

  そして7章です。二回目の酒宴のとき、これまで自分がユダヤ人であることを隠していたエステルは、王に自分の素性をそれとなく明らかにし、次の様に嘆願しました。

  「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」(7:3~4)

 王は一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と王妃エステルに尋ねました。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」とエステルは答えました。王は怒り、ハマンがモルデカイをつるそうとして準備した五十アンマ(およそ23㍍)もある柱につるすように命じて処刑しました。

  8章、その日王は、ユダヤ人の敵ハマスの家を王妃エステルに与えました。エステルはモルデカイとの間柄を王に知らせ、彼をハマンの家の管理人としました。

  「エステルは、再び王の前に申し出て、その足もとにひれ伏し、涙を流し、憐れみを乞い、アガグ人ハマンの悪事、すなわち、ユダヤ人に対して彼がたくらんだことを無効にしていただくことを」願い出ました(8:3)

 ユダヤ人絶滅の取り消しが王によって認められ、ハマンの代わりに重用されたモルデカイと共に、エステルはその取り消しを全国に知らせました。

  このあとに記されているのは、「アダルの月の十三日はユダヤ人の迫害者に復讐する日と定められ」たことです。

  9章では、ユダヤ人は敵に復讐を果たし、運命が逆転したこの日をいつまでも記念するよう定めたことが記されています。

  10章では、ユダヤ人モルデカイは王に次ぐ栄誉の地位を与えられ、彼はユダヤ人に仰がれ、多くの兄弟たちに愛されて、その民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束したことが記されています。

  8章11節から9章16節まで記されている残虐な復讐は、ユダヤ人の民族主義的色彩の濃いものであり、神の民に敵する者にたいする「目には目を、歯には歯を」という古代の報復でした。主イエスは、「悪人に手向かってはならない、と言われ、復讐してはならないと教えておられます。

  今日の聖書の個所は、紀元前5世紀頃に、すでにユダヤ人は離散の民となり、他民族によって迫害された悲惨な民であることが記されています。ユダヤ人絶滅から救ったのは、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と言ったモルデカイの言葉でした。神がエステルをこの時のために王妃にしてくださっていたのです。このことを自覚したエステルの捨身に命をかけた王への嘆願が、ユダヤ人を絶滅から救いました。

  バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還したユダヤ人は、ローマ帝国の支配時代も、ある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となって、ユダヤ地方として存続していましたが、紀元66年から74年にかけて、ユダヤ教徒が独立を求めてローマ帝国と「ユダヤ戦争」を起しました。この戦争に敗北してから、再びユダヤ人は国を追われ、離散と民となりました。ユダヤの地は、以後パレスチナと呼ばれることになりいます。

  二十世紀の第二次世界大戦のとき、ヒットラーの率いるナチス党のドイツにいって、ユダヤ人はポーランドのアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られ、500万人以上ものユダヤ人が虐殺されました。

  何故ユダヤ人は迫害されたのでしょうか。

   ヨーロッパのキリスト教社会では、キリストを殺害したのはユダヤ教のユダヤ人なので、長い間、偏見によって蔑視され,疎外されてきました。ユダヤ人はその宗教のために、地域に同化せず、ユダヤ人コミュにティを作って生活し、当時ユダヤ人はドイツを始め欧州各国で経済を支配、世界政治にも強力な影響力を持っていました。それに対する危機感を覚える国民も少なくなかったのです。ドイツが第一次大戦に負けたとき「ユダヤ人なんかのさばらせておくからこんなことになったんだ」という声が大きくなりました。それで「ユダヤ人のいないドイツにする」という主張し、実行したのがヒトラー政権でした。迫害された理由は資産没収のためでもありました。

  こうした厳しい迫害の状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千(ち)畝(うね)氏(1900~1986年)は、ナチス・ドイツからポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのです。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいました。彼は、<この時のために>、彼が与えられていた役職を活用したのです。」

   6000人のユダヤ人を救ったリトアニアの日本領事・杉原千畝 

                

 (※ 1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなりました。)

 


 

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