ピンハネ社会、何かおかしい

2006年02月23日 11時20分26秒 | Weblog
◇ピンハネ社会、何かおかしい

 35年前、ルポライターの鎌田慧さん(67)は八幡製鉄所(北九州市)の東田高炉で働いた。ベルトコンベヤーからこぼれ落ちた鉄鉱粉をシャベルで拾い集め、コンベヤーに戻す。「ベルト下」と呼ばれる仕事。コンベヤーが動き続ける限り、高炉が燃え続ける限り終わることがなかった。危険と隣り合わせの、日給1500円の仕事は「本工の防波堤」とも呼ばれた。「鉄と繁栄」が遠い記憶となった06年、北九州市を再訪した鎌田さんに改めて「働くことの意味」を聞いた。<文・戸嶋誠司/写真・上入来尚>

 薄茶色のジャケットに細縁メガネの鎌田さん。小倉北区のホテルで、まずは八幡の思い出を尋ねた。「洞海湾の公害が大問題になりましてね、ダイヤモンド社の依頼で70年に取材に来た。そのとき知り合った沖仲士の組合の書記に『新日鉄で働きたい』と持ちかけたら、八幡の『労働下宿』を紹介してくれたんです」

 労働下宿とは、宿と飯と日雇い仕事を提供するタコ部屋だ。当時は若松や戸畑など各地に下宿街があり、その多くを暴力団が経営していたという。6畳部屋に何人も詰め込まれ、一つ布団に男と二人寝する。前貸しと宿代飯代天引きと給与ピンハネで、やがて身動きが取れなくなる。

 鎌田さんは早々に逃げ出したが、ひそかに開いた座談会で、ある男が10年も下宿に住み続けていると聞いて驚いた。給料は安酒に消え、借金は減らず、結局離れる機会を失ったという。周囲にはそんな人間がたくさんいた。

 「いわゆるピンハネ労働。いまの派遣・請負労働の原型です。戦後GHQ(連合国軍総司令部)は暴力支配の温床だとして労働者派遣事業を禁止したのに、しぶとく生き残った。いま、それが復活しています。人材バンクとかアウトソーシングとか美しい名前で。供給源は昔は失業者、現代はフリーターでしょう」

 八幡の労働現場の様子は「死に絶えた風景」(講談社文庫)や「ぼくが世の中に学んだこと」(筑摩書房)に詳しく描かれている。自動車産業の最下層に位置する季節工の目と肉体を通して、産業労働者の現実を世に問うたルポルタージュ「自動車絶望工場」(講談社文庫)からも、すでに33年がたった。洞海湾や八幡の高炉、往時のトヨタから現代日本まで、話は連綿とつながる。

  ■ ■ ■

 「大企業と中小零細下請けとの二重構造の解消は、長く戦後日本の課題でした。ところがいまや、階層は三重にも四重にもなっている」--とつとつとした口調のまま、話題は現代日本の労働事情に移っていく。

 「『貸し工』という古い労働用語があります。『人夫出し』とも言う。工場に労働力だけを提供する仕事。工場が直接雇うべきなのに、中間業者に仕事を請け負わせ、労働者を間接的に働かせる。八幡の労働下宿と同じことをいま、人材派遣会社や請負業者がやっているんです」

 人材派遣業界の市場規模は約3兆円。派遣や請負、パート、アルバイトなど身分不安定な労働者はどんどん増えている。身分保障はなく、多くはボーナスもない。グローバル化の名のもとに、競争力強化のために、低賃金労働者が再び増え始めている。

 「ピンハネで利益を上げることが良しとされる風潮。これはおかしい。将来の希望を持てず、低賃金で結婚もできず、たいした生活を築けない若者を社会が大量生産している。私たちが戦後獲得した価値観が、どんどん崩れようとしている」

 「好きでフリーターをやっているというイメージは間違い。多くの人は『将来は正社員に』『登用制度あり』というニンジンを目の前にぶら下げられて働いているんです。いつかは上に上れるかもしれないと、『蜘蛛(くも)の糸』の下でがんばってる。対等な雇用関係ではないんです」

 企業が人材を育てることをやめ、安価な労働力を使い捨てる社会とは何か。そんな企業と人間が増えて、いったい日本はどうなるのかと、鎌田さんは本気で心配している。怒っている。企業だけが栄え、そこで働く人が疲弊する--そんな社会は間違っていると、今も問い続けている。

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 青森県生まれの鎌田さんは1957(昭和32)年、高校卒業と同時に上京した。板橋区で機械工見習いを始め、3カ月で退社。60年安保闘争の波に洗われながら21歳で大学に入った。

 労働運動を経験し、その後ルポルタージュを発表し続けてきたのも、世の中は良くなるはずだという将来への希望を持てたからだ。ところが、希望とともに生きたはずの60年安保世代に元気がないのだという。

 「敗北感というか、脱力感というのかな。今になって『こんなはずじゃなかった』という気持ちが強い。『働けば報われる』とか『時代はいい方向に向かう』と信じて生きてきたのに、『最近はひどいなあ』という話ばかり(笑)。このままだとおかしな方向に行っちゃうんじゃないかとね。それは、僕らが戦争の暗い時代を経て、戦後民主主義の時代を生きてきたからです」

 ふと気づくと、鎌田さんと同年代の人たちの眼前には、若者に仕事がなく、希望もないという荒涼とした風景が広がっていた。

 「かつてはあり得なかったですよ。若い人を安い賃金で抱えて、修業をさせて、一人前になったら稼いでもらうのが企業の方針だった。ところがいまは、10年修業したら何とかなるという時代じゃなくなってしまった。労組も政党もそれに抵抗できない」

 競争、効率、査定、勝ち組負け組、小泉改革、ホリエモン--この気分は何なのか。思わず問うた。鎌田さん、日本はどこに向かうんでしょうか。

 「ユートピアだろうけど、人間を大事にする国、人の足を引っ張らない国、人の悪口を言わない国、他国を攻撃しない国、私は、そんな国になってほしいと思っています」

 人生の先達は、そう言い残して小倉のネオンの中に消えていった。

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 ■人物略歴

 ◇かまた・さとし

 1938年青森県弘前市生まれ。早大卒。業界紙記者を経てルポライターに。「六ヶ所村の記録」(毎日出版文化賞)「大杉栄-自由への疾走-」「反骨-鈴木東民の生涯」など多数の著書がある。近著は「痛憤の現場を歩く」(金曜日)。

〔福岡都市圏版〕

毎日新聞 2006年1月31日http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/news/20060131ddlk40040660000c.html

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