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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

サッカーという呼び名は変えるべきでしょうか

2022-10-10 21:56:44 | 日記
 欧州ではフットボール、国によってフスバル、フトボルなど発音に差があり
 米国ではソカー
 日本ではサッカー

 昔作家の馳星周がスポーツ・グラフィックナンバーの別冊で
 
 「私はベッケンバウアーよりもヨハン・クライフに憧れた」
 「そしてこの競技をサッカーではなく、フットボールと呼ぶ国に生まれたかった」

 と語っていたはずです。

 (もう所有していませんが、ディエゴ・マラドーナが表紙のサッカー100年の記憶、だったと思います)

 僕は当時そんなものかなと考えていましたが、ワールドカップ7大会連続出場を果たし、アジアを代表する国になった今、僕らも本場欧州のように「アソシエーション・フットボール」と呼ぶべき時でししょうか。

 僕は最近、サッカーを考える、サッカー雑誌を買うという発想ではなく、アソシエーション・フットボールを思うというように考えを切り替えているんですよ。

 スコットランドやウエールズの関係者は

 「ラグビー・フットボール」と「アソシエーション・フットボール」
 前者はパブリック・スクールで偶発的に生まれ、後者は産業革命時の余暇として人気

 というように、呼び名のルーツを今でも認識して読んでいるはずですからね。

 確かに歴史ある「ワールド・サッカーダイジェスト」を、いきなり「ワールド・フットボールダイジェスト」に変更はできませんし、エル・ゴラッソはエル・ゴラッソです。

 ただ第1号から「フットボール批評」を名乗るフットボール批評は、将来日本は欧州からより認知されるためには、サッカーではダメだと考えたのでしょうし、母体とった「季刊サッカー批評」との差別化もあったのでしょうが、僕は今後も意図してアソシエーション・フットボールと口にしたいと考えます。
 
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叡智とは何を指すでしょうか

2022-10-10 21:38:41 | 日記
 店舗で品を探している際、「〇〇様、本日はご来店ありがとうございます」と、「名前」で呼ばれるとうれしくなるといいますね。

 つまり店員が自分を特別な存在と認識していると感じるためですが、僕はむしろ逆で、たまに店員の名前を呼んで幾分距離を縮めるようにしています。(彼らは胸元の名札つけていますから)

 僕は店舗がおもてなしやサービスを提供すること、そんなに大切とは思っていません。

 むしろ良い店舗、上質なホテルは「客」が作っているんですよ。

 それを日本では「類は友を呼ぶ」といい、最高のホテルやレストランには相手に敬意を払い決して粗相、不躾な態度をとることのない、叡智に溢れた人物しか集うことはないためです。

 例えば東京帝国ホテルです。

 僕は宿泊経験はありませんが、仮に宿泊するならば

 「僕が宿泊することで、東京帝国ホテルがなんであんな馬鹿気た客を宿泊させたんだろと、落胆させないぞ」
 「ドアマンからベルボーイに至るまで、僕に応対した方々すべてに敬意を払う」

 という「気概」を持って出かけますよ。

 つまり、東京帝国ホテルはこれら上室の客しか宿泊しない、言い換えればホテル側が選別しなくても、叡智を伴った人間がいかに自分たちが上質な空間と快適性を作れるかを考えている、だからこそ世界に名だたるホテルであり、皆のあこがれというわけです。

 不躾な人間を排除できるというわけですね。

 サッカーもそうですよね。

 レアル・マドリードがレアル・マドリードたる所以は、UEFAチャンピオンズ・リーグ14度の優勝にあるわけではありません。

 名手が真の名手になるための土壌がある
 一度在籍した選手は、同朋の名手を誘いさらなる強化策が自然発生する
 報酬も魅力だが、完全なる実力主義

 という側面を選手たちが理解しているためです。

 心地よい空間は与えられるものではなく、むしろ自分が作るくらいの気概を持ちたいと思っていますし、だからこそボランティアの方に礼を尽くし、手洗いは綺麗に使うくらいのマナーを持ち合わせたいものです。
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映画「戦争のピアニスト」より

2022-10-10 21:23:54 | 日記
 アルゼンチン代表とブラジル代表の関係性は、純粋に競技としての側面が高く、政治的観点と宗教的価値観はさほど含まれていないはずです。

 そこにはパラグアイとアルゼンチンとの戦争があるなと、大陸間としての問題はありますが

 1・南米大陸は2度の世界大戦の地ではなかった
 2・欧州がアフリカとアジアを植民地にし、苛烈な体験を味わせるが南米大陸は(スペインとポルトガルの支配はありますが)、そこまでの影響はなかった

 と考えるべきでしょうか。

 つまり、ワールドカップや欧州選手権でウクライナ代表とロシア代表が戦うことになれば、誰も主審と副審を務めたがらないほど、衆人環視のような形になると思うのです。

 何故戦争、宗教的価値観のお話しをしているかと言いますと、昨日DVDで2002年カンヌ映画祭の優勝作品「戦場のピアニスト」を視聴したためです。

 僕の周辺にユダヤの方、ユダヤ教を信仰する方はいませんし、僕は彼らの教えを断片的にしか知りえませんが、舞台となるポーランド国内において、ユダヤの民が

 「悪名高きアウシュヴィッツ収容所」
 「苛烈な使役」

 に耐える、もしくは他界したことは間違いありません。

 イスラエル代表はワールドカップ予選は欧州予選に参加し、マッカビ・ハイファとマッカビ・テルアビブは、UEFAチャンピオンズ・リーグにも参戦していますね。

 つまり、ドイツ代表とイスラエル代表の試合が実現すれば、外野が黙らないという点は考慮すべきでしょうか。

 それはフランス代表対アルジェリア代表もそうで、試合になるとファンが荒れてどうしようもありません。

 日本代表が蚕室で韓国代表と戦う時も、競技という側面を大きく超えた負荷がかかりますが、それは過去は消えないという認識がぬぐえないため、かもしれませんね。
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