goo blog サービス終了のお知らせ 

塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

復刻という難点の陰に

2017-04-07 01:17:36 | 日記
 ニューバランスはこれまで、ファンの要望に応じて看板商品の1300を幾度も復刻してきました。

 復刻するたびに完成度は高くなり、供給が需要に追い付かない形となっています。

 コンバースも従来の「アディクト」に加え、2014年からは「タイムライン」、そして今年からは「アヴァン」というラインで、チャック・テイラーを軸とした名品を現代風に販売しています。

 実はこの復刻という作業は、ブランドからすれば本当に難しいのだそうです。

 矛盾しているようですが

 1・当時の部品がもう入手できない
 2・当時を忠実に再現すべきか、それとも現代の先端技術を取り入れるべきか

 など、議題は尽きないのですね。

 コンバースはアディクトの品のインソールに「アウトラスト」を、アウトソールにはビブラム・ソールを用いることで

 「最新技術とクラシックの融合」

 に成功していますが、これは稀有な例と言えます。

 サッカーでもオールド・レジェンドジャージのように、基本サイズがXLのみでの発売という形がありましたが、これも忠実であるという点では問題ありません。

 日本人の標準体形でいえば、XLでは大きすぎると感じるファンが多いと思います。

 しかし、ブランドが選手の供給するサイズは、一貫してXLでして、名品の復刻ならばXLを基準にするという彼らの意図を尊重するひつようがあります。

 当然胸スポンサーやブランドロゴまでを再現できないのですが、ファンからすればサイズが合わなくとも、手元に置いておきたいという仕上がりだったに違いありません。

 復刻には生産者、消費者いずれにも深い悩みがあるものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反権力が多数派になってしまったら

2017-04-07 01:02:56 | 日記
 マラドーナにカントナ、そしてイブラヒモビッチ。

 サッカー選手はいつの時代にも、権力に対しての反権力を模索する選手がいます。

 マラドーナが世界中で困窮する家庭が増加していることに対して、ヴァチカンにある金箔を剥がせよ!と指摘してきたことは有名ですし、イブラは自伝でグアルディオラとの諍いを説明しています。

 ただ彼らの意見が世間に浸透すればするほど、逆に彼らが

 「オーソリティとしての立場」

 になってしまいます。

 音楽でいえばパンク、レゲエ、モッズも世の中に物申す形で若い世代から支持を集めました。

 僕が山梨学院に入学した1996年は、ロンドン・パンクが勃興して20年ということもあり、ピストルズやクラッシュだけでなく、マイナーな数多くのバンドのCDが再生産され、雑誌も多く発売されました。

 要は、少数がいつの間にか多数になってしまったのです。

 一方でイブラヒモビッチのように、多数の民族の血を持つ選手からすれば、幼少期から多くのつまはじきに会ってきた過去が、やはり成長しても消えないのでしょうね。

 だからこそ優しい、人徳があると評価されるのではなく

 「人間としてのイブラヒモビッチ」
 「他人がどう感じても、俺は俺だ」

 というスピリッツを持つこと。

 これが自身の自尊心を失わない要因とも感じます。

 日本の学生が、教師の影におびえて内申書の点数を減らされないような言動に注意するという傾向が今でもあるのかもしれませんが、彼らからすればナンセンスなのでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする