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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

反権力が多数派になってしまったら

2017-04-07 01:02:56 | 日記
 マラドーナにカントナ、そしてイブラヒモビッチ。

 サッカー選手はいつの時代にも、権力に対しての反権力を模索する選手がいます。

 マラドーナが世界中で困窮する家庭が増加していることに対して、ヴァチカンにある金箔を剥がせよ!と指摘してきたことは有名ですし、イブラは自伝でグアルディオラとの諍いを説明しています。

 ただ彼らの意見が世間に浸透すればするほど、逆に彼らが

 「オーソリティとしての立場」

 になってしまいます。

 音楽でいえばパンク、レゲエ、モッズも世の中に物申す形で若い世代から支持を集めました。

 僕が山梨学院に入学した1996年は、ロンドン・パンクが勃興して20年ということもあり、ピストルズやクラッシュだけでなく、マイナーな数多くのバンドのCDが再生産され、雑誌も多く発売されました。

 要は、少数がいつの間にか多数になってしまったのです。

 一方でイブラヒモビッチのように、多数の民族の血を持つ選手からすれば、幼少期から多くのつまはじきに会ってきた過去が、やはり成長しても消えないのでしょうね。

 だからこそ優しい、人徳があると評価されるのではなく

 「人間としてのイブラヒモビッチ」
 「他人がどう感じても、俺は俺だ」

 というスピリッツを持つこと。

 これが自身の自尊心を失わない要因とも感じます。

 日本の学生が、教師の影におびえて内申書の点数を減らされないような言動に注意するという傾向が今でもあるのかもしれませんが、彼らからすればナンセンスなのでしょうね。
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