「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

震災の祈念広場や鳥渡る 佐々木經義

2019-11-13 03:11:00 | 日記
たくさんの命が奪われた震災の辛い記憶。日常を取り戻すための復興は進んでいるように見えるが、心に嘘をついて「頑張る」という足並みをそろえている方々の事を忘れてはいけない。詠まれた祈念広場が何処かということを探るつもりはない。神様に達成を念ずる祈りは、場所が違っても思いは同じだ。祈念広場は強い意志表目の「物」としてこの句なかで機能していると思う。鳥が渡ってくるという秋の当たり前の景を思いながら、震災からの八年八ヶ月を思ってみたが、今年の渡り鳥の眼下には巨大台風の被害が広がっている。人間も自然の中の生き物として生きていることを改めて認識する句でもあった。(博子)

つかのまの恋の弾けし夏の月 今野紀美子

2019-11-11 03:27:26 | 日記
恋は突然やってくるが既婚者であるがゆえに抑制も働く。それでも心のときめいたことが何だか嬉しい。少しの間だったけれど、身の中が恋という感情に満たされた。素敵な人だったけれど二度と会えないだろう予感に小さな自爆を起こしている。そんな感じだろか。「夏の月」という心理的に夜涼を誘う季語が、恋したお相手の佇まいを言わずに醸し出しているようでもあり、恋の後味のようでもあり、魅かれた句。(博子)

月までの道ランタンに誘はれ 小林邦子

2019-11-09 03:21:18 | 日記
 なんと神秘的な景だろうか、とうっとりしていたが間もなく我に返った。たぶんこのランタンは鎮魂のために灯されたものだろう。例えば、東日本大震災の発生から8年5カ月となった8月11日、石巻市で追悼行事「ココロの灯(あか)り」が開かれた。盆の迎え火として計約1550個の灯籠やランタンに明かりをともし、多くの参加者が犠牲者の鎮魂を祈った。通りの両脇に灯された明かりが、通りの終の空に月を見せている。そんな光景かと思う。亡き人への思いを乗せたランタンは震災の犠牲者ばかりでなく、すべての大切な命を忍んで灯されているのだろう。黙祷。(博子)

虫の音にほどかれてゆく楡大樹 石母田星人

2019-11-06 19:42:06 | 日記
楡(にれ)は本当に大きな樹だ。写真集や雑誌やカタログなどにその姿は空を背景に写し取られ、すっくと美しいが、真っ直ぐなはずの樹形は「ほどかれてゆく」と、現在はもつれているのだがその姿は想像できない。それは本来の姿ではないと読めばいいのだろうか。自然災害の跡形だろうか・・・、今は「一本」という真っ直ぐを失っている状態にある楡は作者の心の象徴としてあるのだろうか。私にとって楡は、人の機微を受け止めてくれるようなイメージがある。例えば中原中也の「木陰」の一節「神社の鳥居が光をうけて/楡の葉が小さく揺すれる。/夏の昼の青々した木陰は/私の後悔を宥めてくれる」などを思い出す。だが「楡」という漢字のつくりの部分は「くりぬく」という意味を持つ舟と刀から成り立っていて、木の芯が朽ちやすいため、このような漢字を書くようになったそうであるから、芯を心と置き換えれば決して強くはないありようを思ったりした。楡には虫の音が心地よく聞こえているのだろう。真っ暗な野原に鳴く虫は、ギリシャ神話の「オルフェウスとニレの木」で、妻を亡くしたオルフェウスが悲しみを和らげようと奏でる竪琴のように優しく、楡に寄り添っているのかもしれない。(博子)


浅学や広場の隅に葱太り 成田一子

2019-11-04 04:13:36 | 日記
 <えっ!どうして広場に葱が植えてあるの?>そんな句だろうか。自分の知識内で処理できない光景にうろたえ、知りたい衝動に駆られ、誰か訊く人がいないかときょろきょろする作者が見えて来る。実感がしっかりあり、場面もしっかり見えて、この「以外」に一緒に首をひねらされることになる。「浅学や」と謙遜しているがこれは知識に繋がらない事実として葱の景があるのだと思う。実は同じような光景が身近にあった。我が店舗の真向かいの廃業した二階屋は東日本大震災で大規模半壊して二年後に更地になったが箱に収まった50音積木で言えば「あ」「い」「か」「き」の部分が畑になっていた。今は家が建ってまた見えなくなったが、訊けば売ってもらえなかったとう単純な理由だったが、広場という公共の場所にある葱畑。「地区民葱鮪鍋の会」など開かれるのなら素敵なことだと思ってもみた。(博子)