しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

父の話・2003.9.15

2015年09月04日 | 父の話
父の話・2003.9.15

百姓は茂平がいちば熱心にする。果物を作るんで。
大や用之江は働きに出る人が多い。
大は吉浜の田んぼが多い。
役場にいて(農家の)仕事をじっとみょうたらわかる。


教員が不足した時代はあったか?
ない。
昔は資格をもってのうても使ぉうてくりょうた。


阿部山は戦争中に山を均したが、ちょとなかのもん、(県の)技術員をしょうたから応援に行っとったが、あんな痩せた土地を開墾するようでは(日本は)どうにもならんゆうてようた。
豚か牛を放牧するぐれいしかやっていけん。


笠岡湾干拓生産組合の事
生産組合を作って、入植して百姓することで33町もろうた。個人ではくれん。それで組合を作って、みんなに分けた。


娯楽場に芝居が来ていたが、興行元はいたのか?
老人会やこが世話をしようた。芝居好きな人が。芝居は2~3日していにょうた。


脳溢血で死ぬ人が多かったが?
暑い時に、畑から戻らずに仕事を無理してしょうた。身体が弱ってくる。せど、それでも養生せずにつづきょうた。栄養もとらなんだ。
わかっとる人は無理をしょうらなんだ。
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大勲位の遺言②まぎれもない侵略行為だった --中曽根康弘  

2015年09月04日 | 昭和20年(終戦まで)
文芸春秋2015・9月号に「大勲位」こと中曽根元首相の寄稿文がある。
大勲位はさすがに視点が違う(高い)と思い、その記事を転記した。・・その二


文芸春秋2015・9月号


②まぎれもない侵略行為だった

第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは複合で、対米英、対中国、対アジアそれぞれ違った複雑な要素を持ち、決して一面的な解釈でできるものではない。
ただ無謀な戦争に突入する事で、300万人以上の国民が犠牲を強いられたという事実を拭い去ることはできない。
昭和15年企画院を中心に各省庁・軍・民間のエリートが集められ総力戦研究所が設置され、長期戦に日本の国力が耐えられず、敗北は避けられないという結論が出されている。
にもかかわらず無視する形で開戦に突入し、敗戦という無残な結果となってしまった。
国民に対する責任を考えれば、指導者の戦争責任を他者による「東京裁判」という形でなく、日本人自らが裁き、自らの責任において決着をつけるべきものであったと思う。

他方、アジア諸国の国民に対しては侵略戦争でもあった。特に中国に対しては1915年の「21ヶ条の要求」以降、侵略的要素が非常に強くなったといえる。
日本の中央政府の不拡大方針に反し現地軍が武力行為を拡大し、張作霖爆殺事件、柳条湖事件など引き起こし、中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるをえない。
また資源獲得のための東南アジア諸国への進出も、現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった。

先の戦争はやるべからざる戦争であり、誤った戦争であったと言える。アジアの国々に対しては、侵略戦争と言われても仕方がないものがあった。

歴史の解釈、流れというものは国際的に通用する判断で考えなければならないし、歴史の流れ全般を考えながら大局的に判定すべきものであろう。

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大勲位の遺言①あの戦争を振り返る --中曽根康弘  

2015年09月04日 | 昭和20年(終戦まで)
文芸春秋2015・9月号に「大勲位」こと中曽根元首相の寄稿文がある。
大勲位はさすがに視点が違う(高い)と思い、その記事を転記した。・・その一


文芸春秋2015・9月号

昭和20年の秋復員して内務省に復職し、廃墟の東京で茫然と立ちつくし、この国を立ち直していけるのだろうか、国民生活は本当に回復できるのだろうか、と思ったあの日からすれば、誠に隔世の感がある。

20世紀の初頭には世界に胎動しつつあった脱植民地の潮流と相俟って国際連盟が発足する。
日本は国際連盟の常任理事国となるが、満洲国の建国を境に孤立化し、追い込まれる形で国連を脱会、世界の民主主義への正統的潮流に反する形で、無謀な戦争に突入してしまうのである。

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