しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本の原爆(ニ号研究とF研究)

2015年09月16日 | 昭和20年(終戦まで)
日本の原爆開発は、あまり報道されることはない。
里庄町でも仁科博士の原爆研究はタブー視されているような気がする。

あった事を隠すのは今の時代にそむいていると思うが、どうだろう。



中央公論社「昭和時代」より転記

昭和15年夏、理化学研究所の仁科芳雄が陸軍航空技術研究所の安田武雄中将に「あなたがその気なら、私のところで始めてもよい」と伝えた。翌年4月、陸軍は理化学研究所に原爆製造の基礎研究を依頼した。

昭和18年6月、陸軍航空本部の直轄事業として本格化し、仁科博士の頭文字を取って「
二号研究」と言われた。
ウラン濃縮のため高さ6mの熱拡散分離塔が東京駒込に設けられたが、成果をあげないまま春の空襲で焼失した。
ウランの入手も容易でなかった。福島県石川町で地元中学生を動員、採掘を試みたが成果はでなかった。またドイツの鉱山から潜水艦で日本に運ぶ計画もあったが、うまくいかなかった。

陸軍にやや遅れ、海軍も京都大学と連携して核研究に着手した。
湯川秀樹博士も研究チームに参加している。陸軍とは別の遠心分離法を採用したが、分離器の製造段階で挫折した。

ウランを用いた兵器製造が可能なことは雑誌「学生の科学」(昭和19年)にも掲載され国民も知っていた。
いっぽうドイツは原爆製造の可能性を検討したが、実現には至らなかった。ヒトラーの関心が薄かったとされる。

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水島の空襲を見る

2015年09月16日 | 昭和20年(終戦まで)
「高梁川」57号(平成11年12月発行)より

昭和20年6月22日は水島の三菱重工業水島航空機製作所が、米軍機により大空襲を受け壊滅した日である。空襲は午前八時半すぎから、約一時間にわたり、B29爆撃機百数十機をもって行われた。
当時私は玉島町青年学校に勤務し、宿直当番で前夜から学校に泊まっていた。
空襲警報発令と同時に、近くの円通寺山に避難し山頂展望台から直線距離にして左前方6キロ余りの工場を見下ろしながら、空襲の一部始終を望見したのである。

新聞に目を通していた時だ、突然「警戒警報!」と新町を走っていく警防団の大声にびっくりした。
(途中略)
山の高さ100mばかりの円通寺展望台八角堂に立つ。
粒江あたりから西進する黒影は、ただの一機だ。
種松山を過ぎて進路をやや南に変えた。
廃川地に沿って南下するらしい。「目標は航空機工場だったのか」。すーっと降下するや亀島山の手前で二度にわたり爆弾を投下した。
一度に7・8個か、スルスルシャーという大夕立のような音がして、次の瞬間、大地を揺るがすようなドドドーンと大爆発音続けざまに二度起こり、白煙がもうもうとあがった。
その時、突然、高射砲の音がして私はびっくりした。確か前方乙島水溜あたりの山中だ。あんな所に高射砲陣地があったのか、音は数発、それっきりだった。
逼迫感はなく、飛行機のあたりで炸裂した様子もない。
とまた、別の爆音が東の空にする。新たなB29一機が一番機同様投下し南方洋上に飛び去った。
間隔20~30秒で3番機、4番機、・・・同じコースで同じ事の繰り返しだ。しかも印で押したような正確さだ。
6~7回目の爆撃の頃、白煙の下からどっと火焔が吹き上げた。「駄目だ工場が燃えている。火の海だ!」私は思わず叫んだ。
工場は殆ど姿を消しているが亀島山はハッキリと白煙のなかに浮かんでいる。
敵機はそれを目当てにしているように一機、また一機と整然と爆撃をつづけている。
一時間に及ぶ空襲で工場は完全に燃え尽きたらしい。空襲は止んだ。敵機は姿を消した。
工場からは延々と煙が上がっている。
我が方からは、ついに、迎撃機の一機の発進もなかった。

その日の夕方、帰路連島西之浦あたりで工場を望見したら、昨日までの工場は無く鉄骨だけが空しく見えた。
知り合いの青年学校の先生に会った。
「これは内緒ですが、なんにも無くなりました。休業日で、皆が家におり人命被害が少なかったのが何よりでした。」と放心の態であった。
その日を境に水島の様子は一変した。
従業員3万人、徴用工で充満し、早朝の街を女学校生徒が日の丸の鉢巻きをしめ、各学校毎に書いたプラカードを掲げ,隊伍を組み、校歌や軍歌を高唱しつつ工場へ工場へと集合し、一機でも多く、一日でも早くと励んだ姿は消えた。

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