しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小学校の金次郎像

2015年01月21日 | 昭和21年~25年

小学校の「金次郎像」が問題になったのは、
歩きながら本を読むと視力低下だ
交通事故になる
という的外れの指摘をする親がいて、それを受けいれた学校があり新聞沙汰になった位。それも10年か20年前のことだ。

戦前の小学校の校庭には必ずのように「二宮金次郎像」があった。

像は銅製・焼物・コンクリート・石造からできていて、
銅製は戦争中に金属類供出、大砲等に変わっていった。
終戦時の混乱で過剰反応により、学校から撤去を命じられた。

この時点(昭和20年末~21年初め)で日本の小学校から金次郎像は無くなったと思える。

何故なら、
同時に命じられた奉安殿が残る学校は皆無に近い。
更に言えば、天皇家を守った和気清麻呂像も学校から消えている。


では今学校にある金次郎像は、
すべてが戦後に建立されたものだろうか?そうとも思えない。

戦後の教科から終身は消え、
教科書に載ることも稀な金次郎が、何故今でも多くの学校にあるのだろう?


(現在笠岡市内に11像が建つ、学校のほぼ半数)



兼ねての疑問が消えるだろうか?と、

1月18日、福山県立博物館で「二宮金次郎像と青い目の人形」というテーマの文化歴史サロントークがあり出席した。


会場は思いのほかに参加数が多く・・・20~30人位、マニア的な人が参集するかな?と予想していた・・・50~60人、追加のイスが持ち込まれた。

受付で小雑誌とも言えるような資料をもらった。
資料等とともに講座は始まった。

サロントークは2時から4時まで2時間あった。

修了前に2名の方が発言を求め、

1名は、戦前と戦後の金次郎像は建立の目的が全く違うことの質問であり
もう1名は、西日本の多くの学校訪問によるレポート報告は貴重である、というお礼の発言だった。

この2名の発言氏にまったくの同感であった。
つまり、
望んでいた疑問の解決はほとんど無かった。
しかし
足で見聞きした多数の実地・実物報告は貴重なヒントや資料となった。

母校に金次郎像はあった。
しかし見たことはないし、再建もされてない。

その像は何時できて、いつ、どの理由で無くなったのか?
金次郎さんの像への興味も疑問も消えない。



(このページ記述はHP笠岡を走りまくると重なります)

コメント
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