しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

寄島の通学船

2017年01月17日 | 城見小・他校
潮があれば山の道、潮が引けば海岸道。
これは瀬戸内地方ではどこにでもあった話。

茂平では水落や長瀬の段々畑に行くのがそうだった。
神島では畑の他に、お遍路さんの巡礼の道もそうだ。

ところが、寄島の三郎では
潮があっても海、潮が引いても海を渡っていた。

「寄島風土記」より転記する。なお、三郎は昭和50年頃陸地化した。

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寄島干拓により島が陸地と連結したことは、通学船に乗り海を渡って学校に通っていた児童生徒の喜びは格別で、家族の不安も一掃され、学校側も指導管理の問題が解消された。

冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚火を囲んで暖をとり、隊列を正し学校に急ぐ子供たちを見て、大人は「三郎の子供じゃのー、可哀そうに」と同情の言葉で見送っていた。
潮の都合では朝5時ごろから渡らねばならぬ日もあった。帰りも干潮時には歩いて渡った。短い冬の日は昏れが早い。もう島の家には明りがついている。潮騒に追い立てられ、満ち潮に追いかけられての家路を急いだ子供たちであった。

潮が満ちている時には通学船に乗る。
島の子供全員が10人位乗れる櫓で漕ぐ小舟である。
暴風雨の時は欠航する。櫓は上級生が漕ぐ。波風がある時は不安におののき、命がけの通学であった。
その代わり波の穏やかな凪の日は安らぎと楽しさがあった。揺れる船に身を任せて談笑しながら山々の四季の景色を眺め、空行く雲に夢を乗せる日もあったであろう。


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