しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

オール読物「追跡者」

2017年05月31日 | 初めてのこと
オール読物の2017年6月号に笠岡を舞台にした小説が載っている。

江戸時代末期の笠岡を小説家は、活気ある町と人の出来事として記述している。 


以下「オール読物」潮待ちの宿・追跡者(伊東潤)より部分転記する。


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潮待ちの宿

笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。
潮の香りが街中まで漂ってくると、はるか沖合に真鯛の群れが到来する。それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ出し、時には一度の漁で、千尾以上の真鯛を獲ってきた。
とくに、笠岡から四里半ほど南にある真鍋島の辺りは好漁場で鞆ノ津の船団と張り合うように漁を行っていた。

漁船が真鯛を満載して帰還すると、笠岡の町のそこかしこから笑い声が聞こえてくる。漁師たちは、陽気に戯れ言を言い合い、子供たちのはしゃぐ声が、港の活気をさらに高める。

愛宕宮は応神山の中腹にある社で、その参道が急峻なため、誰もが伏すように登ったことから、この辺りに伏越という地名が付いたという。

愛宕宮からは瀬戸内海が一望の下に見渡せた。一面に広がる海は縮緬模様のように見える。
菅笠の武士が「眞に絶景だな」とつぶやく。
「長岡藩の河井継之助と申す。ここと違って雪深い地だ」


愛宕宮から真なべ屋のある笠神社方面へとつづく道は、遊女街の伏越小路から続いているため、遊女たちがよく歩いている。
朝の遊女たちは、夜の艶やかな着物と異なり、掃除や洗い物をするための前垂れに手拭いをかぶっている。

安政6年、備中松山藩の山田方谷の許に赴き、藩政改革の実際を学んできた。「笠岡から大坂に向かう船便があると聞き、ここまで来たのだ」

「おかみさん、長岡というのは越後国にあるそうですね。小寺塾で習いました」
小寺塾とは、かつて敬業館と呼ばれ、西国で一、二を争う経学の名門だったが、今では諸藩に藩校ができたため塾長の名を取って小寺塾と改め、寺小屋のようなものになっていた。

翌日、継之助が散歩をしたいというので観音鼻に連れていくことにした。
真なべ屋のある伏越の西には、古城山と呼ばれる低い丘が海までせり出している。その南端の崖下は観音鼻と呼ばれ美しい磯が広がっていた。
観音鼻の絶壁には、見事な姿の松が断崖にしがみつくように繁茂し、海に目を転じると、木之子島と呼ばれる小さな岩礁が、独特の風情を醸し出している。
継之助は「よきところだ」と言っては感嘆しきりである。

真なべ屋から大仙院までは、おかげ街道を通るのが最短距離だが、陣屋の前を通るが嫌なので、
街中の小路や路地を伝っていくことにした。大仙院に着いた志鶴は、その象徴の赤い鐘楼門をくぐった。




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