しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高杉晋作立志像

2022年12月29日 | 銅像の人

場所・山口県萩市南古萩町”萩城城下町”


奇兵隊を創設し、幕府軍と戦い、歴史に名を残した高杉晋作。
銅像は、残念ながら下関市長府のものと比べると・・・薄い。

 

 


蛤御門の変

元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。
この敗戦によって藩主敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、つづいて第一次の長州征伐となる。
幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、総督徳川慶勝は十一月、広島に到着した。
このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、
恭順派は幕軍の要求するままに、蛤御門の変の責任者として益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じてその首級を徳川総督の実検にそなえた。
徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。

このとき高杉晋作は兵を下関であげ、主戦派も呼応し、恭順派を破った。
その後の藩政は高杉晋作・木戸孝允・井上馨・広沢真臣らによって指導され、幕府に対しては『武備恭順』の方針を決定した。
外には恭順の態度を失わないけれども、内には大いに武備を充実して、
幕府の再征にそなえようというのである。

「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行

 

 

奇兵隊の創設

文久三年(1863)四月、長州藩は他藩にさきがけて下関で米・仏・蘭の艦隊を攻撃して攘夷を実行した。
六月には報復攻撃をうけ、砲台は破壊され民家を焼かれ敗北を喫する。
実力の差を知らぬ攘夷派の暴走であったが、
ここで長州藩は画期的な政策を実施する。
高杉晋作の建議による奇兵隊の創立である。

あとから考えれば何でもないことではあるが、戦いは武士の仕事という観念から抜け出すことができない当時の頭では、
そんな武士以外の軍隊の存在を認めることはできない。
自分たちの縄張りを犯すものとして、長州藩内においても反対の声があがった。
けっきょく藩庁は高杉の建議を認めた。
藩の重役たちが、高杉の建議をいれて奇兵隊の創設を認めたということは、
彼らが他藩の重役たちにくらべれば、目覚めた人たちであったことの証明であろう。


奇兵隊
幕末の風雲が日ごとに危急を深める文久三年(1863)四月、
長州藩主毛利敬親は藩府を萩から山口へ移して、攘夷の実行をはかった。
その二ヶ月後、高杉晋作・来島又兵衛らによって、奇兵隊が結成された。
五月に世界の列強と交えた馬関戦争に敗れ、新しい組織による強力な軍隊の創立を痛感したのである。
高杉晋作は、
「有志之者」の参加をよびかけた。
身分の上下を問わなかった。
武士・足軽のほかに百姓・町人の有志をつのってつくったこの軍隊は、
正規兵に対するという意味で奇兵隊と名付けられた。

「日本の城下町」  ぎょうせい 1981年発行

 

 

訪問日・2022年12月19日

 

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香登一里塚

2022年12月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県備前市香登「大内神社」境内

 


一里塚は4キロごと道の左右にあったが、
その大半が壊されていて、道べりに石碑が一本「一里塚跡」と建つのが大方である。
壊された時代も、理由も、事情も
古い時代の事でもないのに資料が残されていない。
一里塚は、軽んじられていたのだろう。
壊した石を、住宅や段々畑や河川の石積に転用したように思う。

 

 

香登一里塚


    市指定文化財 昭和四十六年十月六日指定
一里塚は、江戸時代に街道の一里(約四キロ)ごとに造られた塚で、
榎や松などが植えられていた。
香登一里塚は、近世山陽道の道沿いに南北一対造られたもので、
北塚は、当神社の境内に往時の姿をしのばせている。
北塚は、南北長七メートル、東西幅五メートル、南側の高さ一・八メートルで、
周囲は石積みで囲まれている。
市内に一里塚で当時の面影が残っているのは、この北塚だけである。
街道の南側にあった南塚は、明治二十年(一八八七)頃、
塚石を使用して「用心井戸」にしてしまった。
その井戸はあるが、
一里塚の面影は全く残っていない。
    備前市教育委員会

 

訪問日・2022年12月

 

 

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