場所・山口県萩市南古萩町”萩城城下町”
奇兵隊を創設し、幕府軍と戦い、歴史に名を残した高杉晋作。
銅像は、残念ながら下関市長府のものと比べると・・・薄い。
蛤御門の変
元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。
この敗戦によって藩主敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、つづいて第一次の長州征伐となる。
幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、総督徳川慶勝は十一月、広島に到着した。
このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、
恭順派は幕軍の要求するままに、蛤御門の変の責任者として益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じてその首級を徳川総督の実検にそなえた。
徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。
このとき高杉晋作は兵を下関であげ、主戦派も呼応し、恭順派を破った。
その後の藩政は高杉晋作・木戸孝允・井上馨・広沢真臣らによって指導され、幕府に対しては『武備恭順』の方針を決定した。
外には恭順の態度を失わないけれども、内には大いに武備を充実して、
幕府の再征にそなえようというのである。
「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行
奇兵隊の創設
文久三年(1863)四月、長州藩は他藩にさきがけて下関で米・仏・蘭の艦隊を攻撃して攘夷を実行した。
六月には報復攻撃をうけ、砲台は破壊され民家を焼かれ敗北を喫する。
実力の差を知らぬ攘夷派の暴走であったが、
ここで長州藩は画期的な政策を実施する。
高杉晋作の建議による奇兵隊の創立である。
あとから考えれば何でもないことではあるが、戦いは武士の仕事という観念から抜け出すことができない当時の頭では、
そんな武士以外の軍隊の存在を認めることはできない。
自分たちの縄張りを犯すものとして、長州藩内においても反対の声があがった。
けっきょく藩庁は高杉の建議を認めた。
藩の重役たちが、高杉の建議をいれて奇兵隊の創設を認めたということは、
彼らが他藩の重役たちにくらべれば、目覚めた人たちであったことの証明であろう。
奇兵隊
幕末の風雲が日ごとに危急を深める文久三年(1863)四月、
長州藩主毛利敬親は藩府を萩から山口へ移して、攘夷の実行をはかった。
その二ヶ月後、高杉晋作・来島又兵衛らによって、奇兵隊が結成された。
五月に世界の列強と交えた馬関戦争に敗れ、新しい組織による強力な軍隊の創立を痛感したのである。
高杉晋作は、
「有志之者」の参加をよびかけた。
身分の上下を問わなかった。
武士・足軽のほかに百姓・町人の有志をつのってつくったこの軍隊は、
正規兵に対するという意味で奇兵隊と名付けられた。
「日本の城下町」 ぎょうせい 1981年発行
訪問日・2022年12月19日