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その②「”重伝建”堀内」
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萩城の外堀。
写真の左側が萩城三の丸であり、”重伝建"堀内地区。
北の総門
高さ7メートル、日本最大級の高麗門
北の総門は、藩政時代に、城下町から萩城三の丸に入るために設けられた「大手三つの門(北の総門、中の総門、平安古の総門)」のひとつです。
かつては、昼間は門番が常駐して人の出入りを監視しており、夜(暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)まで)は門が閉じられて、鑑札を持った者しか入れませんでした。
萩市観光協会公式サイト
萩博物館前、
田中義一大将の銅像は、それはそれはたいそうな台座の上に建つ。
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今日、堀内とよばれ、家老の周布・益田家をはじめ、
上級武士の屋敷が残っているところは、むかしの三の丸跡である。
この堀内の外側に城下町がひろがっている。
高杉晋作・木戸孝允ら中級武士の住宅は堀内の外側にあり、
いまも保存されているが、
城から外へ向かうにつれ、順に下級武士の住まいとなっていたことが知られる。
「日本の城下町」 ぎょうせい 1981年発行
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益田家
萩市観光協会公式サイト
旧益田家物見矢倉
北の総門の見張り台も兼ねた武器を収納した矢倉
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物。
武器を収納する倉を矢倉といい、
天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれていました。
北の総門からの人の出入りを見張る“隠密対策”としての機能があり、
平安古の総門には児玉家、中の総門には大野毛利家の隅矢倉があります。
毛利輝元は、永代家老として益田氏を優遇したといわれます。
幕末の当主 親施(ちかのぶ)は、13代藩主 毛利敬親を助け藩政改革を行いましたが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられました。
繁沢家
萩市観光協会公式サイト
旧繁沢家長屋門
長さ35m、張り出した格子が続く長屋門
繁沢家は、阿川毛利家(7391石余)の分家で萩藩寄組(1094石余)に属し、
給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていました。
建物は、桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけています。
周布家長屋門
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鍵曲(かいまがり)にも行きたかったが、時間不足で行けなかった。
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武家屋敷や商家は入場料が100円で統一されている。
今回は、時間不足で入れなかった。
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場所・山口県萩市”重伝建”堀内地区
旅行日・2022.12.19