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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

軍神・関行男中佐「神風特攻記念館」

2021年02月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県西条市 「神風特攻記念館」
訪問日・2012年10月16日   


四国の西条市に、「神風特攻記念館」がある。








Wikipedia

昭和19年、10月20日朝、
大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて
「この体当り攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。
みんなは、もう命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。
自分は必ずその戦果を上聞に達する。
国民に代わって頼む。しっかりやってくれ。」という訓示を行った。

10月28日神風特攻隊の戦果が「海軍省発表」で公表された。
国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞による特攻第一号・関中佐の発表が最初だった。
そのため、敷島隊隊長・関行男中佐は「特攻第1号」として大々的に発表されたが、関に先んじて21日に消息を絶った大和隊隊長久納については、
戦果を確認出来ず新聞等で報じられることはなかった。

母・サカエが関の戦死を知ったのは関の突入3日後の10月28日で、軍の戦死公報ではなくラジオの臨時ニュースであった。
それから間もなく、サカエの自宅と鎌倉の実家に帰っていた妻・満里子のもとに新聞記者が殺到した。
地元の西条市では軍神関中佐の母が健在だとわかると、どの地よりも大きな騒ぎとなり、
11月25日に県下全学校、工場、事業所で顕彰会や記念講演を開催、そして10月25日を記念日として制定し毎年顕彰行事を開催することを決定している。
関家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」という案内柱が立てられ、
多数のあらゆる階層の弔問客が「軍神の母」を訪ねた。サカエは気丈にも狭い借家で、弔問客を誰彼となく愛想よく迎えた。



市民・県民をあげての”軍神関大尉”だったが、
終戦とともに忘れられていった。





昭和40年代~50年代初めに、軍歌や特攻映画がブームになったことがある。
その時、特攻1号の関中佐の名前が再び脚光を浴びた。

中佐の出身地に記念館ができた。




「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行

大西はこう述べた。
「戦局はみなも承知の通りで、今度の『捷号作戦』にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる。
したがって第一航空隊としては、ぜひとも栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させねばならいが、敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間くらい、敵の空母の甲板を使えないないようにする必要がある。
そのためには、
零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な方法はないと思うが・・・どんなものだろうか」
正攻法では、米軍にとうていかなわない。そのことは、大西ならずとも知っていたことだ。

連合艦隊のレイテ湾突入は迫っている。
単座で、副座の爆撃機よりも軽量で高速な「零戦」は機動性に優れ、敵艦に突入する可能性が高いとみられていた。
昭和19年10月19日夜10時、
甲種飛行予科練習生10期生23人を集合させた。
「感激に興奮し全員双手を挙げての賛成である。
小さなランプ一つの薄暗い室で、キラキラと目を光らせて立派な決意を示していた顔つきは、今でも私の眼底に残っている」

だがこの時集合させられた一人、の回顧には
思いがけなない話に、返答ができず棒立ちとなる10期生たちに
「行くのか、行かんのか!」と怒鳴ると、
隊員たちは反射的に全員手を挙げたというのだ。

特攻は搭乗員らの「志願」によったものという証言、記録は多い。
一方で志願ではなく事実上の強制もしくは強制そのものであったという報告も多数残っている。
さらに戦艦「大和」以下第二艦隊10隻の沖縄水上特攻の場合、命令そのものが特攻であり、兵士は参加の意思を聞かれることはなかった。
生き残った者たちには、部下の「自発性」を縷々強調する機会があった。
死んでいった部下にその機会は永遠にない







平成になり、令和になり、
関中佐は元の静けさに戻っている。







また関大尉に関しては、次のようなエピソードが残されている。
出撃直前、同盟記者にたいして、
「報道班員、日本もおしまいだよ。
僕のような優秀なパイロットっを殺すなんて。
ぼくなら体当りせずとも敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」と語ったという。

またさらに、次のようにも語ったという。
「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKA(ケイエイ・海軍隠語で奥さんのこと)のために行くんだ。
命令とあればやむをえない。
日本が負けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。
僕は彼女のために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬんだ。
どうだ、すばらしいだろう!」

「特攻」 ふくろうの本 河出書房新社  2003年発行



戦後、妻は家を出て、関家は途絶えた。





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弘前第八師団跡

2021年02月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・青森県弘前市下白金町  弘前公園ふきん
訪問日・2018年6月28日  

青森県は、
青森が県都、弘前が軍都として発展してきた。





弘前城には第八師団の兵器支廠が設けられていた。






「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

第八師団関連遺跡
「軍都」から「学都」への橋渡しとなった第八師団


政府は1896(明治29)に六個師団の増設を行い、
弘前市に第八師団の設置を決定する。

現存する偕行社は明治40年に着工し、翌年竣工した。
内部は華やかな照明器具と暖炉には英国製と思われる陶製品が使用されるなど、まさに将校の社交場として相応しい装飾である。
旧第八師団長官舎は大正6年に建てられた。
現在は市長公舎として使用され、非公開である。

第8師団の主な出兵は、
日露戦争の黒溝台・奉天の戦いに始まる。
20.000人の将兵のうち6.300人が死傷する痛手を負ったものの、大戦果をあげ、
後に日本陸軍「最強師団」「国宝師団」と称される。

戦後は、多くの施設が学校用地及び住宅地となり、「軍都」から「学都」へと変貌した。
現存する建造物・施設は非常に少ない。







平成27年、師団長の官舎はスターバックスになった。


スターバックスコーヒー 弘前公園前店(旧第八師団長官舎)


この付近↑↓は弘前観光の中心地。


こちらは旧弘前図書館。
スターバックスの隣にある。
日露戦争で儲かった業者の寄付金などで建設された。







なお、第八師団でもっとも有名な雪の遭難事故の新田次郎「八甲田山死の彷徨」は、当初から史実とは相当違うそうで、最新資料でさらに違うそうだ。
映画「八甲田山」もそうゆうことになる。





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善通寺陸軍第十一師団跡

2021年02月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・香川県善通寺市 陸上自衛隊駐屯地
訪問日・2014年2月22日   


善通寺の象徴。陸軍11師団と善通寺五重塔。





「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

善通寺陸軍第11師団跡

善通寺市は空海の生誕院として知られる名刹善通寺を中心に、
近世以降は巡礼が行きかう門前町として静かな繁栄を保ってきたところであった。
しかしながら近代日本の富国強兵による膨張路線は、善通寺村をして軍都へと大変貌を遂げさせるのである。

第11師団は、日清戦争後の明治29年新設師団として、四国全域を管区に編成された。
適地として善通寺が選ばれたが、県都あるいは城下町ではない一村に師団司令部が設置されるのは異例であった。
この要因には、
広い敷地と豊富な地下水、丸亀・多度津などの良港が近いこと、
高知、徳島、松山の各連隊への交通の至便さなどが挙げられている。

第11師団は、1900年の義和団事件に一個大隊を出兵させたのを端緒に日露戦争、シベリア出兵、
日中戦争からアジア太平洋戦争へと出兵を繰り返すのである。

戦後、師団敷地は市役所や自衛隊、大学などに利用が図られてきた。
当時の地割はもとより建造物も良好な状態で残っているものが多い。
筆山北嶺には遊郭跡も認められる。










戦闘機や戦車を青空展示。









師団司令部は建物内が一般公開。

初代師団長・乃木希典中将が座った机がそのまま残っている。







赤煉瓦が美しい兵器庫跡





善通寺は讃岐平野の田園都市で、観光地金毘羅さんに近接している。
金毘羅詣りに併せての街歩きも楽しい。




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内海町横島の「岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油」

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市内海町横島
訪問日・2011年7月23日


初めて横島に来た人は二度驚く。
美しい海と砂浜に驚き、次に道の狭さに驚く。(道にガードレールはなく、車が脱輪したら海へドボン)









横島の西端付近の山中に石油タンクが残る。





現地の人に聞くと、

「タンクは陸軍がつくった。
桟橋に船をつけて、そこからはパイプラインのようなものでタンクに給油していた。
戦後は丸善石油が買い取った。
その後、所有者が変わり(タンクも減り)現在に至っている」

という話だった。







このタンクのことが載っている本を見つけた。


「岡山の記憶 第9号」2007年

岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油所
昭和15年燃料廠が発足。
同時に陸軍により航空燃料貯油建設を開始する。
今もタンク防護壁と桟橋が残り、付近の山間部には機銃座も最近確認された。
朝鮮戦争時には米軍が接収した。





切石山から麓の横島海水浴場を望む。
横島は、美しいのは海岸だけでなく切石山からの眺めも素晴らしい。








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正戸山(昭和5年陸軍特別大演習)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市御幸町岩成 正戸山公園
訪問日・2016年11月25日   

この時(2016年)の正戸山は2度目だった。
前回(2010年)にくらべて、見違えるような綺麗な公園に変わっていた。
「正戸山を愛する会」の会員さんや、地元の小学校・中学校の生徒さんで年に何度か清掃活動をしている。

2010年は草ぼうぼう、雑木は幹も枝も伸び放題だった。




蘇った正戸山に建つ「御統監之趾」の記念碑。







正戸山からは神辺平野が一望できる。

福塩線に車両が写っているが、あの付近に臨時駅ができた。
そこから昭和天皇は白馬に乗って正戸山に登った。


天皇の行幸から8年後、
福安郡上岩成村・下岩成村・中津村が合併することになり、
町名は行幸(御幸)にちなみ「御幸町」となった。
その後、深安郡御幸村は昭和31年福山市御幸町になった。







昭和5年陸軍大演習には関連する出来事があった。

ライオン宰相・浜口雄幸首相が大演習に出発する際、東京駅で右翼に撃たれた。
川崎の紡績工場にエントツ男が現れ、天皇に見せられないと男に妥協した。エントツ男は、その後ヤミに葬られた。





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八重山(昭和5年陸軍特別大演習)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県浅口市金光町八重  八重山
訪問日・2010年12月24日  


今はもう、すっかり道も荒れたけど、
昭和の5年浅口郡金光町は天皇が行幸という名誉をむかえる、という時があった。


(八重山)



「金光町史」

特別大演習にともなう天皇の行幸を迎えるため県・金光町などは大掛かりな準備に追われた。
当時の金光町にとって天皇の「八重山御野立所」への「行幸」は「無上ノ光栄ニ欲スルヲ持ッテ感激其極ニ達シ」た。


この時天皇は、金光町の特産品の一つである麦稈真田の組合事務所に侍従を差遣わされ、
また、
町内の高齢者(60才以上)、傷痍軍人、孝子、軍人遺族に紋章付きの御菓子が下賜された。
いっぽう、
町内からは金光町果物組合が「梨晩三吉」を、佐方産業組合が鶏卵を献上した。




(八重山)




昭和天皇は11月15日午前10時15分金光駅に着かれて直ちに八重山へ行幸された。
当日町は御影橋付近に奉拝所を設けて諸団体の代表が多数出迎え、奉拝した。


そうして午前11時55分に金光駅を出発され、岡山市の大本営に向かわれた。
八重山の御野立所跡の処置については永久に「御隆徳ヲ偲」目的で記念碑建立の計画を立て土地の買い入れ準備を始めた。






(八重山)


また、八重山の御野立所跡の処理については、
永久に「御盛徳ヲ偲」ぶ目的で記念碑建立の計画を立て、すでに二畝余りの土地を買い入れ準備を始めた。

このようにして、昭和6年4月29日、八重山山頂の記念碑の除幕式が行われた。
当日は、県知事代理、県会議員、玉島警察署長、郡内町村長、小中学校長、軍人会長、教育会長、婦人会長、金光教幹部、町内名誉職等200余名が出席した。
この建碑費は郡内小中学校生徒職員、町村民の寄付によった。(山陽新報昭和7年5月1日)

なお、昭和16年12月この土地は、八重山の渡辺〇〇氏から町に寄付された。




ところで、八重山の大演習はどの方向で行われたのだろうか?
図書館員に尋ねると、古い資料の本をひろげたが戦場は明記していなかった。



・・・

笠岡商業90年史
陸軍大演習

昭和5年11月15日 特別大演習を見学する(金光付近)

(なお昭和4年には史書に載る人物が学校に来ている。
5月24日 宇垣大将来校し検閲を受ける
5月25日 本庄中将視察のため来校す)


・・・

天皇陛下は
金光町史によれば

11月14日・神辺平野
11月15日・八重山
11月16日・吉備郡服部村(総社市)を行幸している。



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一本松古墳の高射砲陣地跡

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山市北区法界院    半田山植物園  
訪問日・2015.4.4


半田山植物園に前方後円墳がある。
これから後円部へ登る。








古墳の名称は「一本松古墳」で、後円部に戦時中高射砲が据えられていた。






説明板に、
「第二次大戦の末期、高射砲陣地が作られ、後円部の竪穴式石室が大きく破壊された」

と書かれている。




古墳の石室も、大戦中の高射砲陣地跡も、
後円部にくぼみがあるだけで、どちらも想像をふくらませるのが苦しい。





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二葉山の高射機銃陣地跡

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県広島市東区牛田
訪問日・2018年5月3日  


広島市は市街地や郊外にハイキングの山が多い。低山ハイキングのメッカのような都市。
広島駅から歩いていけるのが比治山と二葉山。


二葉山は駅の裏山。
眺めもばっちし。







軍都広島は明治の初め広島湾要塞から昭和の大戦まで防衛施設があった。
これは太平洋戦争の高射機銃陣地の説明看板。







昭和20年8月6日は白昼堂々と、しかもたった2~3機くらいで米軍機に攻められた。
それでいて、戦闘機が飛び立つ訳でなく、高射砲が撃ち落とす訳でもなかった。
(他都市が夜間に60~200機程度で侵攻されたのとは比較にならない)

日本が負けたのは原爆が原因でなく、8月6日にはすでに対抗する体力がなくなっていた。”とどめ”だった。









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紫電改

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県南宇和郡御荘町平城703 (南レク御荘公園)
訪問日・2005年5月2日


昭和20年7月24日、
豊後水道上空で撃墜された紫電改1機が、昭和53年に南宇和の海底から引揚げられた。

そして戦闘があった空と、沈んだ海の両方が見渡せる山に保存されている。
それがココ「紫電改記念館」。

日本では唯一の紫電改だそうだ。(米国に3機保管)








紫電改は、

川西航空機が制作の戦闘機。
1万機以上造られた傑作機「零戦」に比べ
わずか400機程度しか生産されなかった。

本や話では大戦末期の名機と紹介されている。

乗員:1名
全幅:11.99m
全長:9.346m
全高:3.96m
全備重量:4,200kg
エンジン:誉21型
離昇出力:2,000馬力
最大速度:594km/h(高度5,600m)
武装:20mm機銃×4










源田実の第343海軍松山航空隊が有名。

昭和20年3月19日、四国松山上空で来襲した
F6F、F4U、SB2Cのアメリカ海軍艦載機を紫電改54機が
上空制空中の紫電7機とともに迎え撃ち、52機撃墜という戦果をあげ、紫電改の優秀性を実証した。
・・・というが、
大戦末期のこの話は、はいそうですか、とは信じられない。




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ガンビーチ(グァム島)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
2006年10月15日
グアム島


ホテル・ニッコーグアムから恋人岬への海岸線に”ガンビーチ”という砂浜がある。





20.000人の日本兵が死んだグァム島。

島内の海岸やジャングルに錆びたままの砲が残っている。



「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸し、
日本兵は7月7日に全滅した。
7月21日、アメリカ軍は600の艦船と2.000の飛行機、約300.000の兵力を
グアム島沖に集中し、約50.000余を上陸させた。

日本軍は陸軍第29師団(名古屋)を中心とした約20.000の兵力で対抗した。
本来アメリカの領土であったグアム島攻撃は、
占領された領土を日本から取り返すという意地とメンツの意味を持ち、
それが一層の激戦を呼んだ。
守備していた歩兵第38聯隊は、初日で約8割の兵士が死傷したと言われている。

海岸の水際作戦が崩壊した日本軍は、マタグアク山や自然洞窟に立てこもって抵抗した。
しかし動けぬ負傷兵は手榴弾を支給されて自爆した。
弾丸も食料や医薬品の補給もなかった。
残存将兵は武器弾薬を持たずに敵陣に白兵戦を挑んだが、
あまりにも非力で悲しい抵抗でしかなかった。
グアム島からの生還者は1.250人。
8月11日、師団長は自決した。

グアム島の悲劇は軍人だけではなかった。
日本人約300人、
現地住民が約24.000人。
彼等も玉砕戦争に引き込まれてしまった。
断崖上から飛降りを命じられたり、手榴弾を投げつけられて、頼みの友軍にやられた。








戦後17年ほどたち、皆川さん・伊藤さんと2人の元兵士が保護され、その10年後横井さんが見つかった。
太平洋戦争で南の島に行った兵士は、特に悲惨な目に遭いお気の毒だ。


・・・・


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行

捕虜になることを禁じた日本の体質が悲劇をもたらせた。
「玉砕」の連続で陥落後、
東条内閣はサイパン失陥の責任をとって総辞職。
11月から同地を飛び立ったB-29が連日日本本土を空襲、以後多くの都市が焼き尽くされていくことになる。




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