哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

3分間池田晶子「私の始まりは受精卵なのか」

2008-04-13 19:09:00 | 哲学
 Nobodyのまた続き、「私」とは何か、についての文章である。クローン人間の話題に関連している。


「人が、「自分を自分であると思う」ということは、どういうことなのか。
 私の始まりは、受精卵なのだろうか。

 なるほど、この肉体は、受精卵から始まったかもしれない。しかし、その受精卵から始まったところのこの肉体が、私なのではない。ということは、私の始まりは、受精卵ではない。なぜなら、「私の始まりは受精卵だ」と考えているところのその「私」こそが、その始まりを問われているところのその「私」だからである。

 考えているところのこれ、常に既に存在しているところのこれ、これのことを、なんと呼ぶべきか、端的に、「自己意識」とでも呼んでおくのが、間違いが少ない。自分が自分であって、別の誰かでないのは、端的に、自己意識が別だからである。

 科学の言葉遣いにいつも引っ掛かるのは、そこで使用される「人間」という語の不明確さである。
「人間」とは何か。
 たんに、この生物的な形姿のことしか、言ってないように思う。しかし、この生物種としての見てくれが「人間」ならば、自分を自分であると思っているところのこれ、この自己意識が世界のどこにも属していないのは、いかなるわけか。」(『考える日々』より)



 自分のクローン人間は自分と同じか、というと、池田さんのいう通り、自己意識が違うのだから自分とは違う、ということである。つまり、肉体はクローンで同じにできても、「私」は異なる。

 一方で、自己意識とされる「私」という精神は、決して個別の肉体と同一ではない。これは繰り返し池田さんが書いている通り、例えば、腕を切っても「私」という精神がその分減るわけでないからだ。

 では、「私」という精神は一体どういう存在なのか。自己意識を持ちつつも、個別の肉体にとらわれない存在かもしれない。そして「考え」は宇宙を駆け巡るのか。