Nobodyのまた続き、「私」とは何か、についての文章である。クローン人間の話題に関連している。
「人が、「自分を自分であると思う」ということは、どういうことなのか。
私の始まりは、受精卵なのだろうか。
なるほど、この肉体は、受精卵から始まったかもしれない。しかし、その受精卵から始まったところのこの肉体が、私なのではない。ということは、私の始まりは、受精卵ではない。なぜなら、「私の始まりは受精卵だ」と考えているところのその「私」こそが、その始まりを問われているところのその「私」だからである。
考えているところのこれ、常に既に存在しているところのこれ、これのことを、なんと呼ぶべきか、端的に、「自己意識」とでも呼んでおくのが、間違いが少ない。自分が自分であって、別の誰かでないのは、端的に、自己意識が別だからである。
科学の言葉遣いにいつも引っ掛かるのは、そこで使用される「人間」という語の不明確さである。
「人間」とは何か。
たんに、この生物的な形姿のことしか、言ってないように思う。しかし、この生物種としての見てくれが「人間」ならば、自分を自分であると思っているところのこれ、この自己意識が世界のどこにも属していないのは、いかなるわけか。」(『考える日々』より)
自分のクローン人間は自分と同じか、というと、池田さんのいう通り、自己意識が違うのだから自分とは違う、ということである。つまり、肉体はクローンで同じにできても、「私」は異なる。
一方で、自己意識とされる「私」という精神は、決して個別の肉体と同一ではない。これは繰り返し池田さんが書いている通り、例えば、腕を切っても「私」という精神がその分減るわけでないからだ。
では、「私」という精神は一体どういう存在なのか。自己意識を持ちつつも、個別の肉体にとらわれない存在かもしれない。そして「考え」は宇宙を駆け巡るのか。
「人が、「自分を自分であると思う」ということは、どういうことなのか。
私の始まりは、受精卵なのだろうか。
なるほど、この肉体は、受精卵から始まったかもしれない。しかし、その受精卵から始まったところのこの肉体が、私なのではない。ということは、私の始まりは、受精卵ではない。なぜなら、「私の始まりは受精卵だ」と考えているところのその「私」こそが、その始まりを問われているところのその「私」だからである。
考えているところのこれ、常に既に存在しているところのこれ、これのことを、なんと呼ぶべきか、端的に、「自己意識」とでも呼んでおくのが、間違いが少ない。自分が自分であって、別の誰かでないのは、端的に、自己意識が別だからである。
科学の言葉遣いにいつも引っ掛かるのは、そこで使用される「人間」という語の不明確さである。
「人間」とは何か。
たんに、この生物的な形姿のことしか、言ってないように思う。しかし、この生物種としての見てくれが「人間」ならば、自分を自分であると思っているところのこれ、この自己意識が世界のどこにも属していないのは、いかなるわけか。」(『考える日々』より)
自分のクローン人間は自分と同じか、というと、池田さんのいう通り、自己意識が違うのだから自分とは違う、ということである。つまり、肉体はクローンで同じにできても、「私」は異なる。
一方で、自己意識とされる「私」という精神は、決して個別の肉体と同一ではない。これは繰り返し池田さんが書いている通り、例えば、腕を切っても「私」という精神がその分減るわけでないからだ。
では、「私」という精神は一体どういう存在なのか。自己意識を持ちつつも、個別の肉体にとらわれない存在かもしれない。そして「考え」は宇宙を駆け巡るのか。