姜尚中氏のベストセラーの続編『続・悩む力』を読んだ。4年前に読んだ『悩む力』と同じように、漱石とウェーバーを主軸に論じている。さらには、フランクルのいう「態度」にも触れられていて、前作と同様の好感触に思えたが、どうも結論的な部分が首肯できなかった。少し引用してみよう。
「結論を先取りすると、人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかという一点にかかわってきます。
「悪」に魅せられてそれに手を染めることも人生の意味だとは言いたくはありませんが、個人や集団に実害が及ばないなら、差し当たり何でもいいのです。恋人でも、友でも、子供でも、妻でも、神でも、仕事でも。
というのも、何かを信じるということは、信じる対象に自分を投げ出すことであり、それを肯定して受け入れることだからです。それができたときにはじめて、自分のなかで起きていた堂々めぐりの輪のようなものがブツリと切れて、意味が発生してくるのです。」(P.145)
ここで言っている、信じられるものをもつという行為の対象が「悪」であっても実害が及ばないならいい、というのはとても肯定できないであろう。「悪」と定義できるのであれば、それは害があることになるからだ。池田晶子さんに言わせれば、誰にとっても害がなかろうとも自分にとってそれは悪いことだ、と指摘することだろう。また、信じる対象以前に信じられている「自分」とは何か、鼻の頭を指すことなく説明してみよ、とここのところも池田さんにバッサリ斬られそうな部分だ。
むしろ、この文章より前に漱石の言葉として紹介されている「己を忘るるべし」(P.114)の方が、納得できる謂いだ。現代においても当たり前のように唱えられている、「自分探し」ということの不毛さを指摘しているようではないか。
「結論を先取りすると、人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかという一点にかかわってきます。
「悪」に魅せられてそれに手を染めることも人生の意味だとは言いたくはありませんが、個人や集団に実害が及ばないなら、差し当たり何でもいいのです。恋人でも、友でも、子供でも、妻でも、神でも、仕事でも。
というのも、何かを信じるということは、信じる対象に自分を投げ出すことであり、それを肯定して受け入れることだからです。それができたときにはじめて、自分のなかで起きていた堂々めぐりの輪のようなものがブツリと切れて、意味が発生してくるのです。」(P.145)
ここで言っている、信じられるものをもつという行為の対象が「悪」であっても実害が及ばないならいい、というのはとても肯定できないであろう。「悪」と定義できるのであれば、それは害があることになるからだ。池田晶子さんに言わせれば、誰にとっても害がなかろうとも自分にとってそれは悪いことだ、と指摘することだろう。また、信じる対象以前に信じられている「自分」とは何か、鼻の頭を指すことなく説明してみよ、とここのところも池田さんにバッサリ斬られそうな部分だ。
むしろ、この文章より前に漱石の言葉として紹介されている「己を忘るるべし」(P.114)の方が、納得できる謂いだ。現代においても当たり前のように唱えられている、「自分探し」ということの不毛さを指摘しているようではないか。