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緒方三郎惟栄館跡から400㍍ほど西、田んぼの中に板碑(いたび)がたっています。
この地は現在廃寺となっている永福寺跡です。
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大型の板碑はかなり遠くからでも見えます。
高さは約3mあり、県下でも最大級の大きさの三反畑(さんたんばた)板碑です。
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板碑は背後に傾いています。大分県豊後大野市緒方町上自在117
大分県指定有形文化財(昭和48年3月20日指定)
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板碑は死者の供養・追善のために建てられ、平らに加工された
石で作られた卒塔婆をいい、寺院の境内や廟所に建立される場合が多いようです。
板碑には、仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ)
あるいは仏、菩薩の像、供養者、造立年月日、趣旨などが表面に彫られ、
多くは高さ 1mほどで頭部を三角につくり、
その下に横に二条の切れこみが入っています。
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三反畑板碑の材質は安山岩で、正面は額部に金剛界大日如来の種子(バン)、
碑の身部には大きく釈迦の種子(バク)、その下左右に
釈迦如来の両脇侍である普賢菩薩の種子(アン)と
文殊菩薩の種子(マン)が彫られ、下方には
「天授三丁巳十一廿九」「十方檀那」(方々の施主の意)と刻まれています。
種子とは仏像の姿を現す代わりに、梵字(古代インドの文字)で表し、
梵字は原音のまま発音されます。
このほか板碑には仏の図像を彫りだしたものもありますが、
梵字で仏像をしめすのが一般的です。
南北朝末期、天授三年(1377)11月29日の造立で、
惟栄より200年ほど後のものであり、惟栄との関連性はありませんが、
惟栄が背後の三宮八幡社から投げたため傾いているとも、
緒方一族の供養塔ともいわれ、地元では惟栄に関連づけて語り継がれています。
板碑の多くは中世関東で建立され、関東地方の場合、細工のしやすい
秩父山地の特産品である青石を材料とした板碑が広く分布しています。
鎌倉幕府創設の捨石となった三浦義明を弔うため頼朝が建立した
満昌寺境内にも鎌倉時代の板碑があります。
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地元にはこの他、惟栄にまつわる言い伝えが数多く残っています。
『大友興廃記』には、惟栄が遊山のついでに、上自在村の北にある
軸丸の原というところで七尺四方の石を鉄棒で突き通した。
その石が今も残っているという力自慢の話や五月の中旬、早苗をとる頃に
惟栄がやってきて夕方になっても田植が終わらないのを見て、
沈もうとする太陽を延ばして田植を終わらせた。
これを神領に寄進して日祭田とよび、その田が今も残っているという。
惟栄を誇りとする人々の心情がうかがわれる伝説ばかりです。
緒方三郎惟栄館跡近くの交差点や橋の名「三郎大橋北交差点」、
「三郎大橋」もその気持ちのあらわれなのでしょう。
『参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
「大分県の地名」平凡社、1995年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
石井進「日本史の社会集団 中世武士団」小学館、1990年