白河天皇はわずか8歳の堀河天皇に譲位し、幼帝を後見するために
上皇となって院政を開始しました。藤原氏をおさえて摂政関白の権限を奪い、
武士出身の近臣を登用し、北面の武士を置くなどして専制的な政治を行います。
堀河天皇崩御後は、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と
三代にわたって政務にあたり、43年間も院政を行いました。
鴨川東岸の白河には、六勝寺の西に白河南殿、次いで南殿の真北に白河北殿が造営され、
院政期の政治の中心となりました。ちなみに白河上皇のおくり名はこれによるものです。
白河には、逢坂関を越え東国へ向かう関路(かんろ)とよばれる要路が通り、
人も物資もここを通過して盛んに動いていました。
政治的また軍事的・経済的にも、重要な意味をもつ地域でした。
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疎水端の遊歩道にたつ「得長寿院跡」を示す石碑。
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◆得長寿院 (岡崎徳成町)
得長寿院は鳥羽上皇の御願寺として、長承元年(1132)に完成し落慶供養が行われました。
規模は南北2町(約250m)、東西は1町とみられ、今に残る東山七条の
蓮華王院(三十三間堂)とほとんど変わらない規模と景観をもっていました。
現在の川端警察署付近にあったと推定されていますが、有力な遺構は検出されていません。
平忠盛(清盛の父)が建物を造営し、その内部には六丈の観音像を中央に、
その左右に等身大の聖観音像各五百体が安置されていました。忠盛はその功績により
殿上人となり、平家一門栄達の魁となったことは『平家物語』でよく知られています。
得長寿院は元歴2年(1185)7月の大地震で倒壊し、以後は再建されないまま
廃寺となりました。鴨長明は『方丈記』に、都を襲ったこの地震を天変地異の一つとして
「寺の堂も塔も崩れ、あるいは倒れたりして被害を受けなかった所はない。」と記しています。
むろん法勝寺をはじめとする六勝寺も崩壊しました。
長寛2年(1165)に清盛は、得長寿院をモデルにして法住寺殿(後白河御所)の西に
蓮華王院を建立し、後白河上皇に寄進しているので、京都には約20年間に渡り、
二つの三十三間堂が並存していたことになります。
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熊野橋西詰にたつ「白河南殿跡」の石碑と説明板。
◆白河南殿(聖護院蓮華蔵院町・石原町・吉水町・秋築町)
白河南殿は嘉保2年(1095)頃、大僧正覚円の僧坊を白河上皇の御所に
改められたもので、白河御所・南殿・南本御所とも呼ばれました。
広大な苑池をはさんで東部に御所、その中に阿弥陀堂がありました。
次いで平正盛(清盛の祖父)は、池の西部に蓮華蔵院を建立し、
九体の丈六阿弥陀仏を安置しています。その後も池の東北部に新しい九体阿弥陀堂や
三重塔が建立され、水石風雅な御所であったことから白河泉殿とも呼ばれました。
鎌倉時代に度々災禍にあい、南北朝時代には衰亡したとされています。
推定場所は得長寿院の西、二条大路北の二町四方(約250m四方)の規模と考えられ、
夷川ダムの発掘調査で阿弥陀堂跡と見られる遺構や
疎水の南では、建物跡が見つかっています。
また昭和50年、水道管布設工事中に熊野橋西詰において築地状の遺構が検出され、
これより西側が白河南殿であることが、ほぼ明らかとなりました。
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疎水に架かる熊野橋西詰
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ファルコバイオシステムズの前には、白河南殿の雨落溝に
使用されていた石が展示されています。
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ファルコバイオシステムズ(左京区川端六筋東夷川上ル秋築町240)は、
「白河南殿跡石碑」の西にあります。
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昭和55年8月本建物を建設する際に発掘調査を実施し、南殿の主要伽藍の一部と
考えられる建物跡を初めて検出しました。ここにある石材は建物の雨落溝に
使用されていた石材の一部を移築したもので、自然の河原石を巧みに使用しており
当時の建築技術を知る上からも大変貴重な資料であります。
昭和56年11月 京都市 ファルコバイオシステムズ(現地説明板)
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「白河北殿跡」の石碑が京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中にあります。
◆白河北殿(熊野神社より西、鴨川畔の川端通に至る丸太町通を挟んだ南北一帯)
白河北殿は元永元年(1118)に白河南殿の北側に白河上皇によって
造営された院御所で、その規模は二町四方と推定されています。
天養元年(1144)に焼失しましたがすぐに再興され、この再興に功があった
平忠盛は正四位下に叙せられました。白河上皇崩御後は鳥羽上皇によって
維持され、その後は上西門院統子(崇徳天皇の同母妹)の御所となりました。
保元の乱の際、崇徳院が鳥羽の田中殿からこの御所へ移り立てこもったため、
後白河天皇方の平清盛・源義朝らに攻められ全焼しました。
この軍功により清盛は播磨守に補任されています。
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石碑には「此附近 白河北殿址」と刻まれています。
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石碑の西面には「昭和十四年三月建之 京都市教育会」と刻まれています。
『参考資料』
(財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
(2012年2月25日)
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 井上満朗「平安京再現」河出書房新書
「京都市の地名」平凡社 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 簗瀬一雄訳注「方丈記」角川ソフィア文庫
バイオと白河北殿の石は未見です。ホント貴ブログは、平家物語を読む者にとっては必携です。d(>ω<。)
平家滅亡とともに、大地震で倒壊。偏に風の前の塵に同じ、朝顔は残るといへども夕を待つ事無し。ですね。
西洞院通は、今の路の50m東。首の掛けられた所には、大きな桜の木がありました。毎年桜が咲くと新聞に載ります。木下蔭桜と二人だけの秘密にしましょう。
私は石碑が藪に覆われていたので、
写真を撮るためにまず草刈をしました。
バイオ前の石ころだけで南殿をイメージするのは難しいです。
伽藍図があると想像が膨らむので、探してみましたが駄目でした。
お花見のご案内ありがとうございます。
府庁の桜の評判は聞いておりますが、お花見はまだです。
以前、京都府庁西側の写真を載せて「悪源太義平の最期」をご紹介しました。
桜の写真が1枚入ると記事が華やかになると思います。来春、行ってきます。
「平家物語」の正式の教育を受けた者が書いているのでなく、
素人が案内するガイドブックです。迷子にならないでください。