コメント
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-10-08 18:27:55
15C後半の応仁の乱で廃絶して跡形もなくなってしまったものが発掘によってちゃんとわかるのはすごい学問です。

文献に残る大規模な堂塔のその遺構が現代見られるのは法勝寺金堂基壇の石垣、他には発掘調査で確認され建てられた石碑と少しの遺構群という事ですが、発掘報告書など読まないし、その石碑の前を何度となく無関心に通っていた私達にもこうして分かりやすく書いて下さるからこそ、その広大な権力とそれに群がった国司・受領の力の凄さ…その一端が想像できます。
 
 
 
先のコメントに名前を書き忘れました。 (yukariko)
2015-10-08 18:29:22
うっかりミスです。すみません。
 
 
 
嬉しいです! (sakura)
2015-10-09 08:43:58
岡崎一帯にあった公共施設、動物園などを第二次大戦後、
占領軍が占拠しその後跡地は整備されて、動物園や美術館、
図書館、勧業館、京都会館などが建ち並び、文化ゾーンに変貌しました。
今当時の景観を想像するのは、難しいのですが、
岡崎には六勝寺があったのだということが分かっていただければうれしいです。

白河天皇が退位してすぐ開いた院政は、摂関政治のもとで
不遇をかこっていた貴族たちの支持を得、受領たちは地方で蓄えた
財で六勝寺の建物などを造営しています。

まだ地方の庶民は掘立小屋に住んでいたという時代、
東日本から京都にやってくる人々は、巨大な塔を仰ぎ、
六勝寺の甍が並び建つ光景にどんなに驚いたことでしょう。
白河天皇は八角九重塔という仏教の形を借りながら院政の力をアピールし、
人々は否応なしにこの天皇の偉大な力を意識したと思われます。

京都は遺跡の上に建物が建っていることが多いので、
建て替えなどの機会を狙って発掘されるのでしょう。
京都の発掘現場を見たことはありませんが、
この夏は家の近くの安満遺跡の見学会に参加し、
水田跡から発掘された人の足跡を見ました。
洪水直後、心配で水田の様子を見に来た人のものだそうです。
よほど慎重に掘り進められるのでしょう。
武道センターに保存されている井戸は、発掘された
欠片を寄せ集めて復元されたものです。

 
 
 
このブログなかりせば (自閑)
2015-11-01 20:26:06
sakura様
この貴ブログが無ければ、決して見ることの無い貴重な井戸と敷石を見て参りました。
絶対分からない所ですね。
事実、敷石を撮影する際、隣にいた座って喫煙者二人が、地面の石を撮影している変な奴?の小生を訝しげに見て ましたもの。
これからもどうぞよろしく。
拙句
いにしへも秋の風ふく山を見よ
 
 
 
自閑さま (sakura)
2015-11-02 08:06:55
こんなところにまで訪ねてくださる方がいらっしゃるので、
ブログを更新する励みになります。

ご紹介いただきました「鴨長明伝」を昨日、図書館で借りることができましたが、
「鴨長明とその周辺」はありませんでした。

この本をネットで検索してみると、学者や研究者がお読みになる
専門書のようですから、置いてあったとしても、
私にはとても無理な気がします。

「鴨長明伝」、今日から少しずつ読んで「平家物語」の周辺を学ばせていただきます。


 
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