コメント
 
 
 
平安末期から鎌倉初期の歴史上で女性の存在は大きいですね。 (yukariko)
2015-10-23 18:45:16
歴史書には男性の名前ばかりが並びますが、どこで誰とどういう風に繋がり、どういう因果で大きく動いて行ったかが分かりませんが、そのキーポイントには女性が大きな役割を果たしていますね。
八条院も鳥羽院に溺愛された姫宮様だけではなく、そのおつきの女房や側近と一緒になっての政治勢力として時代の流れに大きな影響を与えた訳でしょう。

あの広い京都駅一帯に女院御所をはじめ女院に仕えたり、関係した貴族たちの豪邸が広がっていた…昔歴史を習った時は八条院子内親王の存在を知りませんでしたから「以仁王の令旨」がそれほど時代を動かす力があったのか…分かりませんでした。
こうして丁寧にその背景になった女性たちの力を教えて頂いて初めて、動いて行った大きな力が理解できます。
 
 
 
そうですね! (sakura)
2015-10-24 08:23:19
中世を逞しく生き抜いた女性といえば、尼将軍の北条政子を思い出すくらいで、
女性はあまり表舞台には登場しませんね。

平家物語にも、悲劇の女性が多く登場するばかりです。
一方で後白河院の皇子高倉天皇を生み平家を栄達にみちびいた
建春門院や流人時代の頼朝を支え続け、
頼朝に天下をとらせた頼朝の乳母比企の尼などもいます。

八条院は母美福門院ほどの政治的な才覚はありませんでしたが、
ひとりで平家に匹敵する所領を持ち、以仁王が平家追討の令旨を出す際には力となり、
諸国の源氏が蜂起するきっかけをつくっています。

八条院の筆頭女房の三位は、以仁王戦死後も九条兼実の子を生み、
女房ながら三位という高い位を授けられ乱世を逞しく生き抜いた女性のひとりです。

八条院はおおらかな人柄で周囲には才能ある女房たちが仕え、
優雅な生活を送っていたことが、定家の姉健寿が書いた
「たまきはる」からうかがえます。

私も「平家物語」は、高校の古文でならった程度の知識しかありませんから、
「物語」を読むだけでは理解できなく、物語周辺の参考資料を読んでいます。

 
 
 
八条院プレートは見つけ難いですよね (自閑)
2015-10-24 09:23:50
sakura様
八条院プレートは見付けにくく、分りやすく記載頂いたので、これなら迷う事が無いでしょう。1日何万人も前を通るのに、誰もその存在すら知らない。誰も知られていないものをブログで紹介する楽しさが有りますよね。
猶子と養子の違いが解り感謝申し上げます。当時の貴族社会の本には当たり前過ぎて誰も書かないので、ずっと疑問に思っていました。。
又、式子内親王をご紹介頂き、感謝申し上げます。もう少しで式子内親王墓の推定地を決めます。sakura様のブログから、大変良いヒントをもらいましたので。
実は、定家は「たまきはる」の姉の小間使いをして収入を得ていたので、日記にも毎日参殿していた事が判ります。在京少将の貧乏貴族の生活ですから。定家は、国司などになって京を離れる事がなかったですから、収入源も限られていましたから。
又、お邪魔します。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2015-10-25 08:39:48
プレートが案内所内に架かっていると思わなかったので、
少しうろうろしましたが、京都駅にプレートがあると
教えていただいたお陰でこの記事ができました。ありがとうございました。

またご紹介していただきました花鳥風月の
「眺めつる今日は昔になりぬとも軒端の梅は我をわするな」で
式子内親王を学ばせていただきました。重ねてお礼申しあげます。
「玉葉」を読むのはとても難解と聞いておりますが、
自閑さまは「玉葉」「明月記」もお読みになったのですね。

私も猶子は相続権のない養子ぐらいの認識しかもっていませんでしたが、
最近店頭で見つけた永井晋先生の本に養子と猶子の違いが書かれていました。

 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。