平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



JR京都駅八条口中央案内所には、平成2年6月に架けられた銘板があります。
銘板には、「京都駅 昔 むかし 八條院および八條第」と題され、
京都駅敷地の由緒を「財団法人古代学協会古代学研究所」によって
起草された説明文が刻まれています。
八条院とは、
鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の女院号とともにその御所の名です。
また、八條第とよばれる平頼盛の邸宅が八條院の西、室町小路と
町尻小路の間、ほぼ現在の新町通
にありました。
頼盛は清盛の異母弟で、母は池禅尼です。清盛との間には、
早くから忠盛の後継をめぐる対抗関係があり、さらに平治の乱後、
母が頼朝の命を救ったため、平家一門の中で微妙な立場に立たされました。





銘板は案内所内部の壁に架かっています。(10時から16時)

京都駅の敷地の東半分は、八条院暲子内親王の御所跡です。
(北は梅小路、南は八條大路、東は東洞院大路、西は烏丸小路、121メートル四方)

八条院の母は、美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、
崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたります。
二条天皇(後白河天皇の皇子)の准母として院号が下され八条院と称しました。
もともと八条院御所は、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の邸宅で、
女院は母からこの御所を相続しました。顕季は白河天皇の乳母子で、
洛中にいくつも邸宅を所有し、並ぶ者がないほどの権勢家でした。

鳥羽院に溺愛された八条院は、近衛天皇の没後、女帝に推されましたが実現せず、
後白河天皇が第一皇子二条天皇の
中継として即位しました。
八条院には、藤原定家の姉の健寿や歌人の八条院高倉(信西の孫)などが仕え、
源頼政は大内守護を務めながら、八条院のもとに出仕していました。
以仁王の令旨を東国に伝えた源行家は、八条院の蔵人に任じられ使者となっています。

八条院の女房中の筆頭である三位局は、以仁王との間に誕生した
姫宮と若宮(後の安井門跡道尊)とともに八条院で暮らしていました。
女院はその子たちを養子に迎え、以仁王を猶子としました。
この時代、養子は家の継承を託する実子と同じ扱いで、一方、猶子には相続権はなく、
その人一代に限って家族の待遇を与えます。

以仁王は八条院の後ろ盾を得て、平家に叛旗を翻したと考えられますが、
女院が深く追求されることはありませんでした。それは女院が両親から
譲り受けた莫大な荘園を所有しており、その経済力は政治力ともなり、
清盛も一目おくほどの大きな権力を持っていたからです。
以仁王の乱が失敗し、若宮は仁和寺の守覚法親王に預けられ、出家させられましたが、
姫宮は八条院の後継者として大切に育てられました。一旦、八条院領の
大部分はこの姫宮に譲与されましたが、彼女は八条院に先立って亡くなり、
女院没後、その所領は皇族を中心に相伝され、
後鳥羽天皇の皇女春華門院が遺領の大部分を相続しました。
後にこの御所の跡地は後宇多上皇が伝領し、
正和2年(1313)上皇から東寺に寄進されました。

かつて以仁王の子を生んだ三位局は、八条院御所に出入りしていた
摂関家の九条兼実との間に左大臣藤原良輔(よしすけ)をもうけています。
八条院の西隣には、母の三位局から藤原良輔が譲り受けた室町第、その西には
平頼盛の八条第があり、八条院と関係の深い貴族の邸宅が並んでいました。

八条院御所には、女院の姪の式子内親王が身を寄せていたこともありましたが、
女院と以仁王の姫宮を呪詛した疑いをかけられ、御所から退き出家しました。
新古今時代の代表的女流歌人として知られる式子内親王は、後白河天皇の皇女で、
11歳から21歳までの10年間を賀茂斎院として過ごし、病により斎院を退いた後、
藤原俊成に歌を学んだ女性で、以仁王と仁和寺の守覚法親王の同母の姉にあたります。
源義仲に法住寺殿を焼かれた時、後白河法皇もこの御所に同居しています。


平頼盛の妻は八条院の乳姉妹であり、俊寛僧都の姉妹でした。
頼盛は戦死した以仁王の若宮を連行する役目を担い、一門の中での役割を果たしました。
しかし、平家都落ちの際には、一門を見限り都に留まる道を選び、
女院の御所、仁和寺近くの常盤殿に保護されています。
このように八条院は面倒見がよく、縁者や近親者の世話をしたことでも知られます。
『参考資料』
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「京都市の地名」平凡社 

五味文彦「藤原定家の時代」岩波新書、1991
 永井晋「源頼政と木曽義仲」中央公論新社、2015
 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館、2004



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