平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




六勝寺は京都会館を中心に東西1、2キロ、南北1キロ以上もある広大な地に造営され、
付近一帯は平安時代の最後をしめくくる院政期を象徴する場所でした。
これらの多くの建物は、受領たちの経済的奉仕によって造営され、
その見返りとして位階授与などの恩賞や同じ任国の国司の重任など、
成功(じょうごう)とよばれるさまざまな利点がありました。隆盛を誇った六勝寺も
鎌倉時代には衰退し、15C後半の応仁の乱で廃絶してしまいました。
今その当時の姿を地上に見ることができるものとしては、
法勝寺金堂基壇の石垣のみとなっています。
今回は、尊勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺をご紹介します。


◆尊勝寺(岡崎最勝寺町・西天王町)
推定2町(約240m)四方の広大な境内に南大門・金堂・講堂・塔・阿弥陀堂・
薬師堂・五大堂・観音堂などの多くの堂宇があったことが確認されています。
建物跡3棟、溝跡、井戸跡などが検出され、最も発掘調査が進んでいます。
武道センター本館の建設工事の際の発掘調査で発見された
平安時代末期の井戸の枠組みが、同センターに復元保存されています。
上半分が石で、下半分が木で作られており、石組は上にいくほど広い
ラッパ状になっていて、石組井戸の初期の特徴を良くあらわしています。
 この付近も六勝寺の跡地と推定され、井戸は尊勝寺で使われていたものと思われます。

丸太町通りから桜馬場通へ

桜馬場通沿いの武道センターの門をくぐると、
左手に発掘された井戸の実物を集め、半分に裁断した状態で復元されています。

武道センター近くの西天王町団地の入口には、尊勝寺跡の説明板がたっています。
昭和61年、当団地の改修工事に伴って発掘調査が行われ、
尊勝寺の御堂跡が見つかりました。

西天王町団地の桜馬場通をはさんで東側(画像右)が武道センターです。

京都会館(ロームシアター京都)には、尊勝寺跡の石碑がありますが、
現在、改修工事中のため、フェンスが張られ立入禁止となっています。(2015年9月)

2016年4月、再度訪ねるとフエンスは外され工事は完了していました。



尊勝寺跡の石碑の側面には、「昭和四十五年三月 京都市」と刻まれています。

◆最勝寺(岡崎最勝寺町) 
最勝寺は尊勝寺の東側、二条大路の北側にありました。文献からは、
南大門・金堂・薬師堂・五大堂などの堂宇があり、
方1町(約120m四方)規模の寺院であったと考えられます。
発掘調査では、築地跡や建物の雨落溝跡などが見つかっていますが、
主要な伽藍については、全くみつかっていません。



岡崎公園の一角に説明板と寺域南限の築地跡があります。

「ここにある石は、岡崎グランド駐車場建設に先立って、平成三年九月から行われた
推定最勝寺跡の発掘調査で検出された二条大路北側の東西築地塀基礎部分に
使用されていた石材で、検出した築地位置の延長に合わせて置いてある。」
(現地説明板)
◆成勝寺(岡崎成勝寺町)
方1町または東西2町と推定される境内には、
南大門・金堂・経蔵・鐘楼・五大堂などの堂宇が建立されました。
この寺は保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐(香川県)に配流されて、
怨霊となったという崇徳天皇の御願寺という特異な性格があります。
後白河院は崇徳院の怨霊を慰撫するため、治承元年(1177)8月、当寺で4日間
法華八講の法要を行いました。また政権を掌握する過程にあった頼朝は、
元歴2年(1185)7月に都を襲った凄まじい大地震を崇徳院の怨霊によるものと考え、
後白河院にたいして、怨霊を崇めるべきであると伝え、翌年には諸国にあてて
地震で倒れた成勝寺の堂宇の修造をすみやかに行うよう命じています。さらに
鎌倉時代にも崇徳院の怨霊を慰撫する御八講が続けられたことが史料に見えます。
みやこメッセの建設に先立って発掘調査が行われましたが、既存の勧業館基礎の
攪乱などにより、溝跡や井戸跡など以外に有力な遺構は検出されていません。

成勝寺跡の石碑は、みやこメッセの東側、小さな公園内にたっています。

◆延勝寺(岡崎円勝寺町・成勝寺町)
六勝寺の中で、一番最後に建てられたこの寺は、東西2町、南北1町と推定されています。
堂宇は南大門・金堂・塔・一宇金輪堂・廻廊などからなり、後に平忠盛により
「近衛殿寝殿」を移築して阿弥陀堂が造営され、丈六の阿弥陀仏が九体安置されました。
丈六とは、立像の高さが約五メートルある仏像で、座像では、その半分の高さの仏像です。
これまでの発掘調査で疎水の西側から、
建物基壇基礎地業跡や庭石、井戸跡などが検出されています。

延勝寺跡の石碑と疎水に架かる二条橋

二条橋南にも延勝寺跡の石碑と説明板がたっています。

『参考資料』
財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
2012225日)
「京都市の地名」平凡社
 山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
現代語訳「吾妻鏡」(2)(3)吉川弘文館



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コメント
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-10-08 18:27:55
15C後半の応仁の乱で廃絶して跡形もなくなってしまったものが発掘によってちゃんとわかるのはすごい学問です。

文献に残る大規模な堂塔のその遺構が現代見られるのは法勝寺金堂基壇の石垣、他には発掘調査で確認され建てられた石碑と少しの遺構群という事ですが、発掘報告書など読まないし、その石碑の前を何度となく無関心に通っていた私達にもこうして分かりやすく書いて下さるからこそ、その広大な権力とそれに群がった国司・受領の力の凄さ…その一端が想像できます。
 
 
 
先のコメントに名前を書き忘れました。 (yukariko)
2015-10-08 18:29:22
うっかりミスです。すみません。
 
 
 
嬉しいです! (sakura)
2015-10-09 08:43:58
岡崎一帯にあった公共施設、動物園などを第二次大戦後、
占領軍が占拠しその後跡地は整備されて、動物園や美術館、
図書館、勧業館、京都会館などが建ち並び、文化ゾーンに変貌しました。
今当時の景観を想像するのは、難しいのですが、
岡崎には六勝寺があったのだということが分かっていただければうれしいです。

白河天皇が退位してすぐ開いた院政は、摂関政治のもとで
不遇をかこっていた貴族たちの支持を得、受領たちは地方で蓄えた
財で六勝寺の建物などを造営しています。

まだ地方の庶民は掘立小屋に住んでいたという時代、
東日本から京都にやってくる人々は、巨大な塔を仰ぎ、
六勝寺の甍が並び建つ光景にどんなに驚いたことでしょう。
白河天皇は八角九重塔という仏教の形を借りながら院政の力をアピールし、
人々は否応なしにこの天皇の偉大な力を意識したと思われます。

京都は遺跡の上に建物が建っていることが多いので、
建て替えなどの機会を狙って発掘されるのでしょう。
京都の発掘現場を見たことはありませんが、
この夏は家の近くの安満遺跡の見学会に参加し、
水田跡から発掘された人の足跡を見ました。
洪水直後、心配で水田の様子を見に来た人のものだそうです。
よほど慎重に掘り進められるのでしょう。
武道センターに保存されている井戸は、発掘された
欠片を寄せ集めて復元されたものです。

 
 
 
このブログなかりせば (自閑)
2015-11-01 20:26:06
sakura様
この貴ブログが無ければ、決して見ることの無い貴重な井戸と敷石を見て参りました。
絶対分からない所ですね。
事実、敷石を撮影する際、隣にいた座って喫煙者二人が、地面の石を撮影している変な奴?の小生を訝しげに見て ましたもの。
これからもどうぞよろしく。
拙句
いにしへも秋の風ふく山を見よ
 
 
 
自閑さま (sakura)
2015-11-02 08:06:55
こんなところにまで訪ねてくださる方がいらっしゃるので、
ブログを更新する励みになります。

ご紹介いただきました「鴨長明伝」を昨日、図書館で借りることができましたが、
「鴨長明とその周辺」はありませんでした。

この本をネットで検索してみると、学者や研究者がお読みになる
専門書のようですから、置いてあったとしても、
私にはとても無理な気がします。

「鴨長明伝」、今日から少しずつ読んで「平家物語」の周辺を学ばせていただきます。


 
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