平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




「此附近平清盛終焉推定地」と刻まれた石碑が、
崇仁(すうじん)市営住宅の一角にあります。
この地はもと平安京八条大路と
鴨川の交差点の近くで、左京八条四坊十三町にあたります。
『吾妻鏡』によると、清盛は治承5年閏2月4日に九条河原口の
平盛国邸で亡くなったと記されています。しかし、近年の研究で、
中原師元の日記『師元朝臣記』に盛国邸は「八条河原口」にあったとあり、
『吾妻鏡』の記述と異なることがわかりました。

鎌倉末期に関東で編纂された記録より、同時代に盛国邸と
身近に接していた師元の日記の方が、信憑性が高いと判断され、
平成24年12月、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会によって、
「八条河原口」にあたるこの地に石碑が建てられました。

京都駅八条口から八条通りを東へ進みます。



崇仁の名の由来の説明板の所を左折します。

石碑は須原通りに面したJR東海道線や東海道新幹線のすぐ南にあります。









清盛の遺骸は『平家物語』によれば、六道珍皇寺付近の火葬場で荼毘にふされ、
遺骨は摂津国経の島、『吾妻鏡』によれば山田の法華堂
(神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されたと伝えています。

盛国は平家随一の郎党で、憲仁親王(高倉天皇)が皇太子に立つと、
東宮の主馬首を兼任し主馬判官ともよばれました。
憲仁親王が生まれたのは盛国の邸で、父は後白河上皇、
生母の建春門院滋子は清盛の妻時子の異母姉妹にあたります。
清盛は娘(建礼門院徳子)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生むと
天皇の外戚となり権力を掌中におさめました。
ここは清盛が天皇の外戚となるきっかけを得た地ともいえるでしょう。


壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、平盛国は捕虜となって鎌倉に連行され、
岡崎義実(三浦義明の弟)に預けられました。すでに出家していた盛国は
日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を絶ち亡くなりました。
このことを聞いた頼朝は、盛国の態度に大いに心をうたれたと『吾妻鏡』に見えます。
水薬師寺・延暦寺千手の井(清盛の最期)  
平清盛の墓 (清盛塚・能福寺) 
『アクセス』
「 此附近平清盛終焉推定地」の碑 
京都市下京区屋形町7
JR京都駅八条東口から東へ徒歩7~8分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館

 



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