平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






京都祇園祭の保昌山は、丹後守平井保昌と和泉式部の
恋物語を
モチーフにし、保昌が和泉式部に頼まれ夜中、
紫宸殿の庭に忍び入り、
紅梅を手折ってくる姿をあらわしています。

紅梅を手折ったものの
警護の兵に矢を射掛けられ、
髻(もとどり)が切れ逃げ帰ったが、
恋は見事に実ったという話にちなみ、
明治初年までは
「花盗人山(はなぬすっとやま)」とよばれました。
御神体(人形)は
緋縅(ひおどし)の鎧に太刀をつけ、
梨地蒔絵(なしじまきえ)の台に紅梅を一杯にもってこれをささげています。

宵山には、山の故事にちなみ「縁結び」の御守りが授与されます。





保昌山会所



早すぎました!

やがて現れた保昌の姿を見て、祭りで賑わう町中を次の会所へと走りました。

藤原(平井)保昌は藤原南家の一族で文章博士藤原菅根の曾孫です。
祖父の元方が大納言、母は醍醐天皇の皇子元明親王の娘という名門でしたが、
元方以後は摂関家の敵となり振いませんでした。
名門の誇りを捨てて保昌は藤原道長・頼通父子の家司(けいし)として仕え、
肥前・大和・丹後・摂津守などを歴任します。

摂津守を務める頃、摂津国平井(阪急電車宝塚線山本駅北側)に
住んでいたので平井と名乗っていました。

兵の家の出身ではありませんが、弓箭の道に優れ、心猛く、武者として
称賛されていました。妹は満仲に嫁いで、大和源氏の祖・源頼親、
河内源氏の祖・源頼信を生んでいますが、
弟の保輔は大盗人で、殺人事件などを起こした無軌道者でした。

『御伽草子』の「酒呑童子」では、定光、季武、綱、金時の四天王とともに、
保昌が頼光の鬼退治に従ったとあります。

数ある鬼伝説の中でも大江(枝)山の酒呑童子は最も有名な鬼です。
その原像は都に猛威をふるう疫神でした。平安京が都となり人口が増えると、
居住環境・衛生状態の悪い都に疫病がたちまち広がり、
さまざまな祭祀が行われました。当時は疫病は西から
流行すると考えられていたので、都の西に位置する
大江山(京都市西京区老坂峠)は、重要な祭場でした。
頼光は四天王の故事とともに大枝山酒呑童子や土蜘蛛退治の説話や
物語の中で活躍する優れた武将として知られていますが、
当時の貴族の日記や史料には、四天王を率いての化け物退治のような
活躍はみえず、実態はよく分からないようです。


保昌と和泉式部との恋愛がいつ始まったのかは明らかではありませんが、
保昌は道長の薦めもあり、道長の娘彰子に仕えていた
和泉式部と結婚し、彼女とともに丹後に赴任します。
それは和泉式部が和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍をもうけた後に別れ、
為尊親王・敦道親王兄弟との恋愛の末の、30代も半ばのことでした。
弓矢の達人である保昌は、丹後では暇さえあれば狩ばかりしていたので、
必ずしも結婚生活は順調ではなかったようですが、
後半生のほぼ30年間を一緒に過ごしたと思われます。
和泉式部が保昌との関係が上手くいかなくなった頃、
貴船神社に詣で貴船川に飛ぶ蛍をみて詠んだ歌があります。


♪物思へば沢のほたるも我身より あくがれ出る玉かとぞみる

(物思いをしていると、魂が沢を飛ぶ蛍となって、
わが身から抜け出し、闇の空に光って飛んでいる。)

丹後には保昌が任を終えた時、和泉式部は都に一緒に戻らず
「山中」に庵を結び、この地で亡くなったという伝承があり、
宮津と舞鶴を結ぶ間道沿いに式部の墓があります。
王朝美人・才女の末路は憐れであったという伝説が多くありますが、
これもそのひとつと思われます。


清少納言の兄、清原 致信(むねのぶ)は、武門に身を投じ藤原保昌の
有力家人となっていました。保昌と親戚の源頼親との仲は悪く、
頼親は保昌の家人 致信を暗殺しようと企てていました。
寛仁元年(1017)3月、源頼親の命を受けた騎兵および歩兵10余人に
致信は襲われ、
六角富小路の自邸で殺害されました。
『古事談』には、「武士たちはこの場に居合わせた清少納言を法師と見まちがい、
斬ろうとしたが、彼女はとっさに法衣の裾をまくって股ぐらを見せて
難を逃れた」というエピソードが見えます。
藤原道長は頼親について、その日記『御堂関白記』に
「くだんの頼親は殺人の上手なり、たびたび此の事あり」と記し、
道長は武士が殺生を生業とする者であると認識していたようです。


『今昔物語集』には、藤原保昌の説話が収められています。
大筋を簡単にご紹介します。
「十月のある夜中のこと、保昌は狩衣姿で大路を笛を吹きながら歩いていました。
それを見た大泥棒の袴垂(はかまだれ)は、衣を剥ぎ取ろうとしましたが、
なんとなく恐ろしそうなので、寄り添ったまま歩いていくと、
自分を気にする様子も見えず、静かに笛を吹き続けています。
保昌は袴垂が自分の衣装を狙っているのを知ると、自分の家へ袴垂を誘い
「以後もこんな物が欲しいときは、遠慮なくこい」と言って衣装を与えました。
その後、袴垂がこの家の主を確かめると、摂津前司保昌の家でした。
あれが音に聞こえた保昌であったかと思うと、
生きた心地もしなかった。」という説話世界での保昌の風流話です。
祇園祭橋弁慶山   祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
『アクセス』
「保昌山会所」京都市下京区東洞院通り松原上ル燈籠町
烏丸四条駅徒歩約7分   
山鉾巡行午前9時~
『参考資料』
 梅原猛「京都発見・丹後の鬼・カモの神」新潮社 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
 日本古典全書「今昔物語」(巻25-7)朝日新聞社 「平安京の風景」文英堂
 野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社
 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「日本の祭り文化事典」東京書籍株式会社 
「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(5)平凡社 




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コメント
 
 
 
和泉式部のお話の最後の相手として出てきますね。 (yukariko)
2015-09-26 18:03:32
彼と結婚し丹後に下ったけれどその結婚生活はあまり幸福ではなかった…保昌も道長の勧めに従っただけ…と続くのでしょうか?
でも保昌も橋渡しをされた最初の頃は世に名高い「和泉式部」とは?と興味を示して文や歌もやり取りし、女房仲間とのやり取りからおねだりされたのかな?と…祇園祭でこの山を見ると思います。

でも清少納言の兄が保昌の家人だった…びっくりですが、狭い貴族社会だから入り組んだどこかで親戚というのもあるのですね。
 
 
 
生野の道も遠いですが (自閑)
2015-09-26 23:25:07
古今著聞集は鎌倉前期と言うことで、実は最近学び始めた平家物語より、学んでおります。
昔は醜聞を流した(紫式部日記)和泉式部を高齢の保昌がまいってしまった。式部は保昌のレベルに満足できなかったのかも。
式部と清少納言は親戚で、ちょっとHな和歌も取り交わしています、
大江山は、生野も大変かと思って未だ踏みもせずいます。
貴船神社の御札を買った次の日、水を出しっぱなしにして出勤してしまい、さすが雨の神様が望んだんだと思いました。先月も一天貴船山が掻き曇り、雷雲となって、神泉辺りにどしゃ降り降臨してました。
愚詠
千早振る神の御魂かと雨降るに古しき舟出し泉に行かむ
(振る降る古。和泉、式部、貴船の折句。)
 
 
 
yukarikoさま (sakura)
2015-09-27 09:21:02
和泉式部は小式部内侍をかかえて生活を安定させたかったため、
道長に勧められて平井保昌と結婚したのだと思っています。

保昌もさまざまな悪い噂があるものの、歌人として有名な
式部を妻にしたかったのかも知れませんね。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2015-09-27 09:49:27
短歌もお作りになるのですね。
詞書、思わず笑ってしまいましたが、
新古今集の和歌を目ざしてらっしゃるだけあって、歌はお見事です!

ところで和泉式部と清少納言は親戚なのですか。
貴船で和泉式部が詠んだ和歌は「古今著聞集」の中に引かれているのですが、
近頃はその説話集にまで手を広げていらっしゃるそうですね、
旺盛な知識欲に感心しています。

次のことは私よりよくご存知と思いますが、
説明のため書かせて下さい。
道長は一時定子の中宮大夫でしたから、定子サロンの活発な
文化的な雰囲気をよく知っていたと思います。
影子入内にあたって、道長は影子の女房に才気の優れた女性を探し、
その一人に和泉式部は選ばれています。
また、式部は為尊親王、その死後は
敦道親王との間で相聞歌をやりとりしています。
保昌は武勇の人ですし、そういう面で式部は満足できなかったのではと思っています。
 
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