平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




みやこめっせ東側の植え込みの中に成勝寺跡の碑があります。

保元の乱で後白河天皇方に敗れた崇徳院は、いったんは三井寺めざして
東山の如意ヶ岳に走りましたが、夜に紛れて紫野の知足院に近い僧坊で出家し、
覚性法親王(崇徳の同母弟)を頼って仁和寺に入りました。そのことはすぐ内裏へ知らされ
10日ほど拘束された後、讃岐国に配流と決まり、仁和寺で警護にあたっていた
佐渡式部大夫重成が鳥羽草津湊まで送ることになりました。途中、鳥羽離宮の父鳥羽上皇の
安楽寿院陵に差しかかると、崇徳院は父君に最後のお別れをしたいといいましたが、
重成は後白河天皇をはばかって、力およばぬ事と認めませんでした。
しかし、牛車だけは安楽寿院陵の方向に向けてくれました。

この源重成というのは、源義朝が平治の乱で敗れて東国へ落ちる途中、
美濃青墓で落武者狩りの一行に遭遇した際に義朝を逃がした上で、
身元が割れないように顔の皮を削り「我こそは源氏の大将左馬頭義朝なり。」と
名のって散々に戦ったのちに自害する義朝の郎党です。


船は四方が打ち付けられた上に鍵まで架けられ、締め切った屋形船の中からは
移りゆく外の景色を眺めることもできませんでした。お供をしたのは、
兵衛佐局(重仁の母)と女御の僅か3名です。やがて讃岐松山の津に到着しましたが、
急なことなので住まいの用意もなく、在庁官人(国庁に勤める官人)
綾高遠(あやのたかとう)の仏堂(雲井の御所)に入りました。
その後、
国司が国府(現坂出市)の傍に造営した鼓岡の舘へ移り、讃岐の配所で
九年ほど過ごした後、長寛2年(1164)8月、46歳の生涯を終えました。
遺骸は白峯山上で荼毘にふされましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものでした。
仁和寺で出家した重仁親王は、すでに2年前に23歳で亡くなっていました。

平安時代の始め、平城上皇は弟の嵯峨天皇と皇位を争って挙兵し、
弟に敗れましたが、上皇は出家したことで許され平城京で余生を過ごしました。
後白河天皇が編纂した『梁塵秘抄口伝集』には、「雅仁(後白河天皇)は、
母待賢門院の御所に出入りし、母の好きな今様の世界に浸っていた。
母が亡くなると、暗く沈みきっていたが、兄の崇徳から一緒に住むようにといわれ、
暫く兄の御所に住まわせてもらい、毎夜好きな今様を歌っていた。」とあり、
仲の良い兄弟であったことがうかがわれます。
出家すれば平城上皇のように、都の片隅にでもおいてもらえると、
思ったであろう崇徳にとって讃岐配流はあまりに過酷な刑罰でした。


長年の恨みが爆発したのか、怒りに荒れ狂う崇徳院の怨霊の姿が『保元物語』に
描かれています。「鳥羽上皇の菩提を弔うため、崇徳院は三年がかりで書写した
五部大乗経を石清水八幡宮か安楽寿院(鳥羽天皇陵)に納めたいと願いましたが、
信西が「呪いがかけられているかもしれない。」といって受け取りを拒否し、
そのまま送り返されてきました。恨みに思った院は怨念火となって燃え上がり、
大乗経の奥に日本国の大魔王となる。と血書し、その経を海底深く沈め、
髪も爪も伸び放題で生きながら天狗となって死後の祟りを誓ったという。」
魔王というのは、仏法・王法を乱す霊をいい、その代表が天狗です。

崇徳院の怨霊の祟りはすさまじく、保元の乱の3年後に平治の乱(1160)が起こると、
後白河天皇側近の信西や藤原信頼が殺され、その後、息子の二条天皇が在位中に
23歳の若さで亡くなり、安元2年(1176)には、寵妃建春門院をはじめ孫の
六条天皇(二条天皇の子)が崩御するなど、後白河周辺の人々が相次いで亡くなりました。
その翌年には、内裏を焼失させ、京都の町の3分の1を焼く「太郎焼亡」とよばれる
大火災が起こり、これらはみな崇徳院の怨霊のせいだと考えられました。
そこで、後白河法皇は崩御の段階では、「讃岐院」とよばれていた院に
「崇徳院」の号を贈り、藤原頼長には、太政大臣正一位を贈りました。
引き続き、成勝寺において法華八講が修せられました。
しかし、怨霊はそんなことでは鎮まらず生き続けます。
治承3年(1179)、清盛が後白河を鳥羽殿に幽閉して政権を掌握し、
その翌年から6年間にわたる源平合戦が勃発しました。

『保元物語』が記す五部大乗経について、吉田経房の日記
『吉記』寿永2年(1183)7月16日条に次のような記事があります。
「崇徳院は讃岐国において、自筆の五部大乗経を血で書き、経典の奥には
天下滅亡の文言が書かれている。この経典は仁和寺の元性法印のもとにある。
未供養のままなので、あらためて崇徳の御願寺である成勝寺において供養し、
亡き院の怨霊を鎮めたいとの申し入れが法印からあったが、供養を行う前から崇徳院の
怨霊が戦乱を引き起こしているので、どうしようかと議論すべきである。」と記しています。
元性は崇徳院の第2皇子で、母は三河権守師経の娘です。

こうした動きの背景には、崇徳院の側近藤原教長があったとされています。
教長は保元の乱後、常陸国(茨城県)に流されましたが、許されて帰京すると
崇徳や頼長を神霊として祀るべきと唱え、怨霊慰撫の火付け役となりました。
五部大乗経の存在が公表されると、当時の不安定な社会情勢や政治情勢を背景に、
人々にその恐怖を決定づけました。そして崇徳院怨霊に対する対策が次々にとられます。

寿永2年(1183)12月29日、保元の乱の時に崇徳の御所があった
春日河原(京都大学医学部付属病院敷地)に神祠建立を決定し翌年造営されました。
崇徳院廟と頼長廟が並び建ち、両廟の周囲は筑地塀で囲まれ門がたっていました。
この廟はのちに、廟が粟田郷にあったことにより、
粟田宮とよばれるようになり、
応仁の乱の兵火により荒廃してしまいました。
また崇徳院の遺骨は分骨されて、高野山に納められ菩提が弔われました。

さらに後白河院の晩年には、院の病気平癒を願って、
讃岐の崇徳院陵に御影堂が建立され、御陵が整備されました。


山田雄司氏によると、崇徳院が配流中に詠んだ歌や
寂然が院と交わした歌などから、実際の崇徳院の讃岐での暮らしは、
無念の思いを抱きながらも、穏かであったとされています。

♪浜千鳥跡は都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく
(浜千鳥の足跡(筆跡)は都へ飛び立つことができるが 、
わが身は都から遠く離れた松山で悲しみの声をあげて泣くばかりです。)

五部大乗経を送った時に添えたこの和歌などにみえるように心細く、
悲嘆にくれる生活だったようですが、『保元物語』が語る
天狗となって怒りに荒れ狂う姿とは程遠い余生を送ったとされます


鴨川東岸の白河の地(現在の岡崎一帯)は、桜の名所として知られ、
風光明媚な地として早くから貴族たちの別荘が並び建っていました。
この地域が大規模開発されたのが、白河・鳥羽両上皇の時代です。
寺名に「勝」の字がつく特に格の高い寺院、六つの寺が相次いで建立されました。
今は寺跡の石碑や町名に残るだけですが、白河天皇御願の法勝寺、鳥羽天皇御願の最勝寺、
堀河天皇御願の尊勝寺、待賢門院発願の円勝寺、崇徳天皇御願の成勝寺、
近衛天皇御願の延勝寺と六寺が甍を並べていました。これらを総称して六勝寺とよびます。
成勝寺は保元の乱に敗れ、讃岐国(香川県)に流された崇徳院が建てた寺院で、
院の怨霊を慰撫するために法華八講の法要がこの寺で行われました。


「みやこめっせ」の辺りにあった成勝寺は
崇徳天皇在位中の保延5年(1139)に落慶法要を行っています。
当時、岡崎一帯には壮大な寺院が林立し、周囲には皇族・貴族・僧侶、

また彼らの生活を支える商人なども集まり住んでいました。



成勝寺西方の琵琶湖疏水を越えた辺に近衛天皇御願の延勝寺がありました。
みやこめっせの西隣に「延勝寺跡」の石碑がたっています。


田中殿跡 (崇徳天皇)
崇徳天皇廟京都祇園 
『アクセス』
「成勝寺跡の碑」京都市左京区岡崎成勝寺町 
市バス「岡崎公園前」すぐ

『参考資料』 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 

山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

「西行のすべて」新人物往来社 「京都市の地名」平凡社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館 



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