コメント
 
 
 
後宮で待賢門院璋子に勝利して鳥羽上皇の蝶を得ただけではなく…。 (yukariko)
2015-09-09 22:15:42
院政に多大な影響を与えた美福門院得子と信西の妻紀伊二位の二人の女性によって政治が左右され、それまでの宮廷政治から武士が台頭してゆく時代へいやおうなしに移り変わってゆきますね。
その中心となった美福門院得子は後宮に上り、その後院の近臣たちと政治に参画するようになった時も手配りが出来る側近を、身辺に計画を実行させるスタッフを集めていたのでしょうね。
上級公家のお姫様で乳母や女房に囲まれて世間知らずに育った女性では太刀打ちできないのも当たり前と思いますね。
 
 
 
夫々の人々の欲望が (自閑)
2015-09-09 23:55:10
白河院、鳥羽院、多くの者の欲望が、二人の女性の人生を翻弄し、やがて肉親が殺し遇う保元平治の乱に向かって行く。
須賀神社が美福門院ゆかりと言うのは、初めて知りました。
式子内親王墓を探す為に、聖護院を訪れ、須賀神社も見て、節分祭の恋歌売りにとても興味を得ただけですが。
貴blogは、本当に無知蒙昧の私にとっては、ガイダンスです。
又お邪魔します。
 
 
 
yukarikoさま (sakura)
2015-09-10 13:44:33
激動の平安時代はすさまじい相剋の世界でもあったようですね。
美福門院と待賢門院はともに40代で亡くなっていますが、
二人の生き方には随分差があったようです。

美福門院の政治力は待賢門院よりはるかに優れ、
保元・平治の乱の修羅場をくぐり抜けてきました。

待賢門院は鳥羽の寵が若い美福門院に傾くと、わが子
仁和寺の覚性法親王の手で落飾、晩年は法金剛院で過ごすことが多くなりました。
今様や雑芸に楽しみを見つけ、後白河と今様の師神崎の
遊女かねを取り合いして歌っていたといいます。

歌人とも交流を多く持ち、仕えた女房には才媛が多く、
待賢門院堀河やその妹上西門院兵衛らがいて、文化的な雰囲気に包まれていたようです。

 
 
 
自閑さま (sakura)
2015-09-10 14:00:18
とんでもないです。
須賀神社はNHKの大河ドラマ「平清盛紀行」で知りました。
あまりメジャーでない史跡案内もありました。

何かの時に尋ねようと、「レファレンス」をお気に入りに入れておきました。
こちらこそありがとうございました。

平安時代に行われていた節分祭の懸想文売りは昭和30年に復興されたものと
「昭和京都名所図会」に書いてあったので、写真を探してみました。
5、6年前の節分祭に友達と誠心院から法成寺跡、清荒神、
蘆山寺、東北院、吉田神社、聖護院そして最後に須賀神社とまわりました。
所々で写真を撮りながら歩いたのでもしやと思ったのですが、
清荒神と須賀神社は通りがかりに立ち寄っただけだったので…残念です!

 
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