コメント
 
 
 
厳島神社がここにも祀られていたとは… (yukariko)
2015-05-30 13:57:55
御所の見学では烏丸通の蛤御門の方から入るので御苑側の堺町御門側の九条池は殆ど見た事がありません。
拾翠亭の名は聞いたことがあるだけ、三珍鳥居の木島神社の三本足の鳥居は雨乞いなどで知っていましたが、こちらもとは知りませんでした。
金土に見学が許可されると読んでもなかなか訪れる機会ってないですね。

清盛は福原遷都以前から兵庫津を宋との貿易港築島を築き、大輪田ノ泊の修築事業を進め、工事の安全、この地に住む人々の安泰を願い、平家一族の氏神である安芸ノ国厳島明神を勧請した。…とyahoo検索で兵庫築島の項にありましたが、義晴により京都に移転、その後ずっと九条家敷地内に置かれていたのですね。
三女神に祇園女御が合祀されたのはいつの事なのでしょうね?やはり清盛の権勢が盛んな時代だったのかな?
 
 
 
京都にもあるのですよ! (sakura)
2015-05-31 09:00:11
京都の厳島神社の社伝によれば、兵庫の築島にあった安芸の
厳島神社を足利義晴が石鳥居とともに細川高国邸に移し、
その後、九条道前が徳川幕府に願って九条家の鎮守とした。とあります。
「厳島神社と平家納経・青春出版社」には、「公家の九条家の
邸内に移され鎮守社となって後、清盛の母と伝えられる祇園女御が合祀された。」とあり、
合祀されたのは、清盛の時代ではなく、ずっと後のようです。

拾翠亭は季節や曜日などの制限があるようですが、厳島神社の方は自由に入れます。

NHKの大河ドラマで「平清盛」を放送していた頃、
産経新聞に百日紅に彩られたこの社のカラー写真が載せられていました。
夏のさかりに社は華麗な姿を見せるようです。

 
 
 
祗園女御の伝説は多数あるのですね (自閑)
2015-05-31 19:09:11
祗園女御と清盛には、色んな伝説があるのですね。勉強になりました。
何れにせよ、平家隆盛のきっかけは祗園女御と云うことですね。

九条家と厳島神社の関係は、前から不思議に思っていました。春日神社なら何と無く分かるのですが。
 
 
 
伊勢平氏隆盛のきっかけ (sakura)
2015-06-01 09:44:22
坂東の地に土着し勢威を振るった平将門もその将門を討った
貞盛も平氏の一門ですが、11C一門の平忠常が乱を起こし
源頼信に平定されたのをきっかけに源氏が関東に進出し坂東の支配者となります。
さらに平氏は東北で勃発した「前九年・後三年合戦」を
鎮圧した源氏に圧倒されて振いませんでした。

しかし、白河院政全盛の時代に正盛が院政と結びついて
伊勢平氏が勃興していきます。

上横手先生は「藤原顕秀と祇園女御、この二人が正盛を白河法皇に結びつけ、
平氏を世に出した人々であったことは疑いない。」と
「平家物語の虚構と真実」の中で述べておられます。

藤原顕秀(あきすえ)は家成の祖父で、
この家系は院の近臣として羽振りをきかせた家柄です。

清盛の母が亡くなると、忠盛は家成のいとこ池禅尼を正室に迎え、
重盛の正室は家成の娘(成親の妹)です。

九条邸になぜ厳島神社が移されたのか分かりませんが、
本殿前の石鳥居はよほど貴重だったのでしょう
江戸時代には所司代が交代するたびにこの鳥居を検分したそうです。
知らないことが多すぎて勉強しなければならないことばかりです。

ご存知のように、九条家の祖・兼実は北家藤原氏の嫡流で
関白を務めた政界の第一人者です。その日記『玉葉』は克明に記され、
源平の争乱当時の様子を知る貴重な史料となっています。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。