平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




東京都中央区大手町にある平将門の首塚
『平家物語』は、この世は無常であり、権勢を誇る人も長くは続かず、
みな春の夜の夢のようにはかない。
武勇に優れた者も必ず滅んでしまうと冒頭の一節で語り、
それを身をもってあらわした人物として将門を登場させています。
まず中国の人たちの名が列挙され、次いで我国では承平・天慶の乱の
平将門・藤原純友、平治の乱を起こした藤原信頼などの名が挙げられ、
最後に平清盛を紹介し、清盛はこれらの誰よりも横暴であったと語ります。

将門の祖父、高望王は臣籍降下し「平」姓を与えられて上総介に任じられました。
千葉県の国司の次官です。平安時代の始めに上総・常陸・上野の
三国は親王任国と定められ、都にいる親王が守に任じられましたが、
自身は現地に赴くことはなく、
次官の介が実質的な最高権力者となり政務を代行していました。
その介に高望(たかもち)王は任じられたのです。
王は子の国香・良兼・良将(よしまさ)を伴って下向し、
四年の任期が終えても
都に戻らず東国に勢力を広げました。帰っても次の職や出世の
見込みがあるわけでなく、そのまま東国に住めば王の子孫として扱われ、
地方名士として尊敬されながら暮らすことができたのです。
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門


将門は京都に出て、内裏清涼殿の北にある滝口の陣に詰める
天皇護衛の滝口の武士として出仕していました。
父の鎮守府将軍良将は鎮守府在任中に貯めこんだ財貨を
時の左大臣藤原忠平に貢いで家人となり、
その縁で将門も忠平を主君と仰ぎ、
忠平の推挙によって滝口になりました。

父の急死により故郷に帰った将門は叔父たちと争うことになります。
故郷の下総国には豊田郡・猿島(さしま)郡(茨城県坂東市)を
中心にいくつも邸宅や広大な田地があり、遺領をめぐる争いが
一族の抗争へと発展し、将門は叔父の国香を討ちます。
一族の内紛が国家的な内乱に拡大したのは、天慶2年(939)のことです。

平安時代中期、京都では藤原氏が政権をほしいままにしていました。
地方では国司(受領)の権限が強化され、徴税と行政の全責任を
負わせる代わりに、国家は諸国の内政に直接介入することを控えました。
そこで受領は一定額の租税を中央に送る義務を果たすと、
さらに多く徴収して私腹を肥やし、民は暮らしにあえいでいました。
受領になれば一財産築くことができるとまでいわれ、そのポストを
希望する者が多くいましたが、天皇や上皇、摂関家などの有力者と
コネのある人物以外は中々任官できないというのが実情でした。

ちょうどその頃、隣国武蔵で都から派遣された国司(受領)と
在地勢力との間で様々な対立が起きていました。
新しい国司(知事)、権守興与王(おきよおう)と介(副知事)の
源経基が赴任し、着任早々、国内の視察と称し、
行く先々で貢物を集めて郡司(市長)との間で紛争が起こりました。
これを聞いた将門は武蔵国に向かい
仲裁に入りましたが、結局うまく調停を行うことができず
仲裁する中で、土地や租税をめぐって将門は国司と対立し、
周辺の国府を襲撃し朝廷に叛旗を翻します。

国司(受領)の無理難題に日常的に対抗していた豪族らと
手を結び大勢力となった将門は関東一円を手中に収め、
一族を坂東(関東)諸国の国司に任命し、
「新皇(京にいる天皇に対して東国の新しい天皇)」と名のりました。
新皇(しんのう)には坂東独立国の野望が語られています。
将門の声望は日増しに高まり、
民衆が将門によせた期待は大きなものがありました。
知らせを受け驚いた朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、
鎮圧の為に兵を派遣しますが、朝廷軍が到着する前に、
その旗の下に馳せ参じた将門の宿敵貞盛(国香の子)と
下野国の藤原秀郷(俵藤太)の連合軍が将門勢に挑みかかり、
そして一本の矢が馬上陣頭にたって戦っていた将門に命中し、
ここに坂東独立の夢は潰えたのでした。

横暴な受領(任地に赴く国司)
との軋轢を強めていた豪族たちが、
王の血筋を引く将門を棟梁として大乱となったのが将門の乱です。
『将門記(しょうもんき)』は、平安時代中期に繰り広げられた
この合戦を題材にして、将門を武勇に優れ坂東の王者となりながら、
武芸によって身を滅ぼした悲劇的な英雄として描いています。
この後、将門は長く人々に記憶され、寄せられた同情は
極めて大きく、多くの将門伝説を生み出すことになります。

この合戦で手柄を立てた貞盛はその後、
国司や陸奥守兼鎮守府将軍を歴任し、その4男維衡(これひら)が
伊勢守となって、伊勢平氏の祖となり繁栄していきます。
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-

①国香-②貞盛-③維衡-④正度-⑤正衡-⑥正盛-忠盛-清盛

源経基は六孫王と称し、後世、清和源氏の祖と仰がれる人物ですが、
政治的な能力がないために京都では出世の見込みはありませんでした。
しかし武芸に秀でていたため、治安が乱れていた
東国に下り武蔵介となったのです。
将門の乱では追討軍の有力メンバーとなり、時を同じくして
起こった西海の藤原純友が海賊を率いて起こした反乱にも武功を立て、
その子満仲は摂津多田(川西市)に拠点を置いて諸国の受領を歴任し、
次いで東国・東北地方で起こった戦乱で頼信・頼義・八幡太郎義家の
源氏三代は名声を高め、武家の棟梁としての地位を確立しました。
清和天皇-貞純親王-
経基-満仲-頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝

なお、平将門の乱と藤原純友の乱は総称して
承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)とも呼ばれます。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 関幸彦「武士の誕生」日本放送出版協会
  竹内理三「日本の歴史・武士の登場」中公文庫
 日本古典文学全集「将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語」小学館 
井上満郎「平安京の風景」文英堂 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社
 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 川尻秋生「揺れ動く貴族社会」小学館
 



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