平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




皇居のすぐ近く、高層ビルが立ち並ぶ一角に、
平安時代の中頃、朝廷を震撼させた平将門の首塚があります。

下野猿島(茨城県坂東市神田山)で討取られた将門の首は
京へ運ばれて晒された後、一族が持ち帰り当時辺境の地であった
武蔵国芝崎村(千代田区大手町)に葬りました。

鎌倉時代末期、塚は荒廃し凶作が続いて飢饉となり、
疫病が蔓延すると人々は将門の祟りだと恐れました。
徳治2年(1307)、この惨状を見て東国遊行の途中、
立ち寄った時宗の僧、他阿真教が「蓮阿弥陀仏」という戒名を
将門に贈り、これを板碑に刻んで塚の傍に建てて供養しました。
次いで近くの安房神社を修復し将門の霊を合祀して
神田明神と改め、社の傍らに草庵を結び将門の霊を祀り
芝崎道場と称したと江戸の地誌『御府内備考』は伝えています。
これが浅草にある神田山日輪寺の起こりです。








 
碑には蓮阿弥陀仏と彫ってあります。

いつのものでしょうか、将門塚の背後には古い石灯篭があります。

徳川家康は江戸入りすると、神田明神を江戸総鎮守として手厚く保護し、
2代将軍秀忠の時、家康から引継いだ江戸城拡張工事で、
社は現在地(千代田区外神田2丁目)に遷され、
幕府の寄進で桃山風の豪華な社殿が造営されました。
塚だけは老中土井大炊頭邸内(幕末は酒井雅楽頭屋敷)に残され、
大名屋敷の庭の
築山として利用されました。大手町の内濠川に架かる
神田橋は、かつてこの地に神田明神が
あったことに由来し、
土井大炊頭利勝の屋敷があった当時は大炊殿橋ともよばれました。


将門の乱が鎮圧されて千年あまりを経た今も数多くの
将門伝説が語られています。
その最も有名なものが将門首塚です。
京で梟首された将門の首は関東目ざして飛び帰り、
武蔵国芝崎村(現在地)に落ち、落下点に塚が築かれ
夜な夜な怪光を放ったというものです。
飛んでいく途中に首が落ちて祀られたという伝承や
将門に関するさまざまな史跡が関東中心に広く分布しています。


南北朝時代の『太平記』や室町時代の『お伽草子』
『俵藤太物語』では、将門伝説が
大きく脚色され、
更に江戸時代になると新たな展開を見せます。

将門に題材をとった浄瑠璃や歌舞伎が相次いで上演され、
読本・娯楽本の
黄表紙や錦絵などが作られて
伝説は庶民の間に深く浸透していきました。


明治維新後は酒井邸跡地には大蔵省が設置され、
首塚は
元・神田明神の御手洗池といわれる
約300坪の蓮池とともに同省玄関前に残されました。

その後、開発にともなって、この塚が撤去されそうになる度に関係者に
「将門の祟り」と思われる不思議な出来事が起きています。

(1)大正12 年(1923)の関東大震災で庁舎が焼失し将門塚も崩壊したため、

大蔵省は塚を壊して池を埋立て、仮庁舎を建設したところ、
大蔵大臣
速水整爾(せいじ)はじめ大蔵官僚や工事関係者14人が
原因不明の病気や事故で
相次いで死亡しました。
これは将門塚を破壊した祟りではないかと、
昭和 3 年に塚の上に
建てた仮庁舎を撤去して塚を復元し、
盛大な慰霊祭が行われました。
大蔵省復興にあたり、崩れた
将門塚の発掘調査が行われ、
塚は5C頃に造られた小型の円墳または前方後円墳と
推測できましたが、墓主については判明しませんでした。

 その後も祟りは続き、昭和 15 年 には、大手町の逓信省航空局が
落雷を受け、大蔵省はじめ周辺の庁舎が全焼しました。
同年は将門没後一千年であったので、再び大蔵省主催で
慰霊祭が執り行われ、
同省は霞が関に移転しました。

(2)第二次世界大戦後、米軍が将門塚一帯を整地して駐車場を
作ることになりましたが、ブルドーザーの運転手が将門塚の石碑に
乗り上げて転落死し、1人が大けがをする事故が起きました。
地元住民が米軍に塚の由来を説明して首塚保存の陳情が行われ、
駐車場建設は中止されたというエピソードがあります。


その後も将門塚は畏怖・畏敬の対象となり、昭和35年、
地元企業九社が「将門塚保存会」を設立し、翌年、
日本長期信用銀行の敷地の一角が寄進されて将門塚が改修され、
さらに昭和45年に将門塚保存会により現在のように整備されました。

将門塚のまわりに置かれている大きな蛙の像に祈ると「蛙」と「帰る」の
語呂合わせから、いつの頃からか海外駐在から無事帰るという信仰が生まれ、
赴任前や海外勤務を終えたビジネスマンが参拝にくるようになりました。
『産経新聞』平成27年1月23日朝刊によると、
昭和61年11月、三井物産マニラ支店長の若王子信行さんが、
フィリピンの共産ゲリラに誘拐されて以来、
そんな姿が目立つようになったという。

東京都文化財  将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍
平良将の子将門は、下総の国に兵を起こし忽ちにして関東八ヶ国を平定、
自ら平親皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の
奇襲を受け、馬上刃刀に戦って憤死した。享年三十八才であった。
世にこれを天慶の乱という。将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、
三日後、将門岩に別れを惜しみ、白光を放ちながら東 方に飛び去り、
将門の首級は武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。
大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。
村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、
将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすため、
徳治二年(1307)真教上人は、将門に蓮阿弥陀仏という
法号を追贈し、塚の前に板石塔婆を建てヽ日輪寺に供養し、
さらに傍らの神社にその霊を合わせ祀ったので
漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。

 天慶の乱の頃は、平安朝の中期に当り、藤原氏が政権を
ほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い 坂東では、
国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、
下僚は収奪に民の膏血を絞り、加えて洪水や旱魃が相続き、
人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。その為、
これらの力の弱い多くの人々が将門に寄せた期待と同情とは
極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には
数多くの伝説と将門を祭る神社がある。
このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、
実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。  
また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であるとともに、
弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは
社会的にも極めて大きい
茲にその由来を塚前に記す。
 
史蹟将門塚保存会 
保存会事務所 千代田区外神田2162 
神田神社内 電話(2540753
京都神田明神  
『アクセス』
「将門首塚」東京都千代田区大手町1-2 三井物産ビル東側
 東京メトロ・都営地下鉄大手町駅 
C5出入口から東へすぐ

『参考資料』
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 

山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
「東京史跡事典」(上)新人物往来社
「江戸東京学事典」三省堂 「東京都の地名」平凡社 
「産経新聞」(産経抄)平成27年1月23日朝刊

 



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