平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




膏薬辻子(こうやくのずし)とよばれる路地の中ほどに
京都神田明神があります。ここは平将門の霊を供養するために
空也が塚を築いたのが始まりと伝えられています。


膏薬辻子は西洞院通りと新町通の間にあり、四条通から
綾小路通りへ抜ける
幅2㍍、長さ160㍍ばかりの狭い路地です。
この辺りは祇園祭には伯牙山(はくがやま)・郭巨山(かっきょやま)を
出すので、日ごろ人通りの少ない路地も宵山には多くの人で賑わいます。






神田明神を参拝する和服姿の男性。



ガラス戸の向うには、赤い鳥居と将門を祀る小さな社がありますが、
鍵が架かっていて中へは入れません。





賽銭箱上の説明書

東京神田明神主催で行われる(2015年5月7日~15日)神田祭のポスター

膏薬辻子は中央付近で鉤形に曲がります。

膏薬辻子を抜けた綾小路通りに面してたつ杉本家住宅
(国指定重要文化財)近世商家のたたずまいを残した
杉本家は
伯牙山の御飾所となります。

『拾遺都名所図会・巻1』によれば、
京都神田明神の辺は天慶3年、平貞盛らに討たれた
将門の首を晒したところという伝承があります。
「後世、ここに家を建てると祟りがあるというので、
神に祀って神田明神と崇め、空也上人は将門の亡霊を供養すべく、
ここに一宇の堂を建立した。」としています。
江戸時代、巻き起こった庶民の旅ブームにのって、
名所記とよばれる旅行案内書が数多く出版されました。
『拾遺都名所図会』はその一つです。

若い頃、都に出た将門は藤原忠平を主君と仰ぎ、
滝口の陣に出仕し滝口小二郎と称しましたが、
父の死により承平元年(931)頃、下総国に帰郷しました。
父の遺領や将門の妻をめぐる問題に端を発し、一旦始まった一族の内紛は、
留まる所を知らず次第に泥沼化し8年もの間続きました。
『将門略記』は、「伯父良兼は将門と娘との結婚を良しとせず、
将門と不仲となっていた。」と伝えています。

問題はその後に起こりました。
地元豪族と国司との紛争に介入した将門は国府を焼き払い、
一族の内紛は内乱にまで拡大しました。
結局、平貞盛・下野の豪族藤原秀郷に攻められ、
将門は下野猿島(茨城県坂東市神田山)で討ち取られました。
現在、将門終焉の地には、その霊を祀る国王神社が鎮座しています。
そして将門の首級は京都に届けられて東市で晒されました。
平安京には朱雀大路を中心に左右対称に官営の東西両市がありました。
東市(ひがしのいち)は現在の西本願寺の地にあり、
集まった人々に見せるため、市は罪人への尋問や
刑場としても使用され、また布教の場ともなりました。
空也上人を市聖(いちのひじり)というのは、ここで布教を行ったからです。


「京都神田明神」  御祭神 平将門命・大己貴命・少彦名命
平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者
「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。
この地は天慶の乱に敗れた将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと
伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、
このたび将門公を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えしました。
皇居のほとり、大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が
胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として、
今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、
弱きを助くる」精神を慕い、参拝が絶えません。


東京に鎮座する神田明神は、大己貴命、少彦名命とともに、
平将門命を祀る神社です。

天平二年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、
延慶二年(1309)に将門公が合祀されました。

元和二年(1619)に江戸幕府より江戸城(現在の皇居)から見て
表鬼門守護の地へ遷座しました。江戸幕府より
「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ
江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。

神田明神の大祭・「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、
江戸城内において徳川将軍の上覧を仰ぎました。
明治七年には、明治天皇も陛下も親しくご参拝されました。
現在は「祇園祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、
二年に一度、五月中旬に行われ、二百基に及ぶ
神輿担ぎが賑やかに行われております。


尚、この土地・建物は、故・神田神社責任役員氏子総代遠藤遠蔵氏の
ご遺志を継ぎ、娘の平野憲子様により寄贈されたものです。

平成二十六年十二月吉日
〒101-0021 東京都千代田区外神田1-16-2
神田神社社務所 電話 03-3254-0753 FAX 03-3255-8875 

 「神田明神由緒書」 
平将門公 武士の先駆者「兵」として古代に東国を治めた人物。
下総国(茨城県)に生まれ、長じて上京し、時の左大臣
藤原忠平に仕えました。重要文化財『将門記』によると
将門公は従四位下で鎮守将軍の父・良将の死により東国へ戻りましたが、
伯父・平良兼との不和を機に叔伯父たちと反目するようになり、
次々と戦いを仕掛けられその度ごとに勝ち続けました。
将門公は騎射に優れ合戦の故実に通じ、名誉を重んじる
「兵の道」に生きたお方でした。苦境にも挫けず戦い、
その一方で頼られると誰であろうと助け、たとえ敵であろうとも
女性には優しく接するという「弱気を助け、強気を挫く」
義侠心にあふれる人物でした。
天慶二年(939)、
常陸国の国庁に在地豪族の免罪を申入れ、和談による平和的解決を
試みましたが受け入れられず、やむなく合戦となり国府を陥れました。
以降、下野、上野、武蔵、相模などの国庁を手中に収め、
さらに八幡大神と菅原道真公の霊より東国を治める
「親皇」の称号を受けました。
これ以降将門公は謀反人とされ国家への反乱とされました。
朝廷は将門公の乱に恐れおののき、諸社寺に調伏、祈祷を命じ、
藤原秀郷と将門公の親戚・貞盛公を追捕凶賊使に任命し、
東国へ派遣しました。そして天慶三年二月十九日下総国における
秀郷・貞盛軍との壮絶な戦いの末、
将門公は神の鏑矢にあたり、志半ばで息絶えました。

将門公の首級は京へ送られこの地で晒された後、
所縁の者が東国へ持ち帰り葬り将門塚を築かれ、
延慶二年(1309)には東京・神田明神へ合祀されました。
京都将門塚保存会

平将門首塚 
 平将門(平将門の乱)    
『アクセス』
「京都神田明神」京都市下京区四条通新町西入下ル新釜座町728
四条烏丸から西へ進み、四条通南側の新町と西洞院の間の膏薬辻子を入った先にあります。
市バス「四条西洞院」からすぐ
京都市営地下鉄烏丸線四条駅・阪急京都本線烏丸駅より徒歩7分(26番出口から地上へ)
『参考資料』
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 橋本義彦「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 
山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 「京都市の地名」平凡社
 「京都の大路小路」小学館 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社  井上満郎「平安京再現」河出書房新書


 

 



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