平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






京都御苑の南西隅、九条池の中島に厳島神社があります。

ここはもと五摂家のひとつ九条家の屋敷跡にあたります。
明治維新後、この辺りにあった皇族・貴族などの
邸宅は逐次取り壊され、九条家も拾翠亭(しゅうすいてい)と
池および一宇の鎮守社だけを残すだけです。


社伝によると平清盛が母祇園女御のために安芸国から
摂津国・兵庫津に
勧請した厳島神社が始まりです。
その後、足利将軍義晴によって京都に移され、
さらに江戸時代の明和8年(1771)九条家の鎮守社として、
九条邸に移されました。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の
3柱の女神に祇園女御が合祀されています。

社殿前にたつ花崗岩製の鳥居は室町時代の作で、兵庫津にあったものです。
鳥居の笠木と島木の中央部がともに弓形になった
唐破風(からはふう)になっているのが珍しく、北野天満宮の
伴氏(ともうじ)社(上京区)、木島(このしま)神社(右京区)とともに
京都三珍鳥居の一つとされ、重要美術品に指定されています。







厳島神社が清盛の母と伝える祇園女御は『平家物語』
「巻6・祇園の女御」の中で、次のように紹介されています。
白河法皇の寵妃祇園女御は東山の麓、祇園のあたりに住んでいました。
5月のある雨の夜、いつものように法皇が女御のもとに通う途中、
お堂の脇から怪しく光るものが現れ、
これは鬼に違いないとお供の平忠盛に殺すよう命じました。
しかし、忠盛は殺す前に生け捕りにして正体を確かめようと
捕えてみればお堂の守をする60歳ばかりの老法師でした。
法皇は冷静な忠盛の振舞いに感服し、褒美に祇園女御を忠盛に与えました。
ところがこの時、女御はすでに清盛を宿していて、
清盛がめざましい出世を遂げた背景には、こんな事情があったというのです。

祇園女御の素性については、祇園社前の町屋の水汲み女だったとか、
法皇の御所に出仕していた女房だったとか、いろいろにいわれていますが
『吾妻鏡』は源仲宗の妻としています。いずれにしろ中宮や皇女に先立たれた
晩年の白河法皇の寵を一身に集めて栄え、権勢を誇った女性です。

白河上皇の中宮賢子が僅か28歳の若さで亡くなると、上皇は泣き暮し、
食事をとらなかったことが『扶桑略記』に書かれています。
さらにその15年後には中宮の忘れ形見、最愛の娘
郁芳(いくほう)門院までが21歳で病を得て急死してしまいました。
上皇の落胆は大きく近臣の制止を振り切り二日後には出家し、
法皇となってしまったほどです。この時、
清盛の祖父正盛は亡き皇女の菩提寺である六条院へ
私領を寄進して法皇に重用されるきっかけをつかみます。
しかし身分の低い正盛が直接上皇に寄進を申し出ることはできませんから、
主と仰ぐ祇園女御の後ろ盾があったからと思われます。


祇園女御の名が史上に初めて見えるのは、郁芳門院(媞子)の死後、
長治2年(1105)10月26日、女御が祇園社(八坂神社)の
東南に祇園堂を建て供養した時です。
その堂には約4,85mの阿弥陀仏が安置され、金銀珠玉を飾りたて、
多数の公卿殿上人が参列、その贅沢なことは人々の耳目を
驚かせるばかりだったと藤原宗忠の日記『中右記』に記されています。
鎌倉時代の説話集『古事談』には、忠盛の郎党藤大夫(とうのだゆう)に
禁令の鷹を飼わせ、祇園女御のために食用の鳥を獲らせたことが記され、
正盛に続いて忠盛も女御に仕え、引き立ててもらっていたことが窺えます。

祇園女御は祇園の近くに住んでいたのでその名がつけられ、
また洛東白河にも住房があったので白河殿とも呼ばれていました。
『今鏡』に「白河殿はあさましき宿世おはしましける人なるべし。」とあるのも
何か曰くがありそうですし、殺生が禁じられていた時代にも関わらず、
彼女の食卓には毎日のように鳥料理がのぼっていたというのもどうなのでしょう。

『平家物語』頭注には、祇園は祇園社信仰を背景に急速に発展し、
混沌と妖しい魅力をたたえた地で、貴所に仕える美女たちの
供給源となった地であろう、そうした土地柄も祇園女御の
背景に考えねばならないとあり、彼女の実像は捉えにくいようです。
祇園女御は生涯子を生むことはなかったと思われ、
藤原公実の娘璋子や威徳寺を譲った禅覚阿闍梨を猶子にしています。
威徳寺は女御が仁和寺内に建立した堂宇で、法皇崩御後はその西にあった
住坊に住み、法皇の冥福を祈ったと『仁和寺諸堂記』に見えます。
璋子はのち鳥羽天皇の中宮となり、崇徳・後白河両天皇を生み、
待賢門院と呼ばれます。璋子は入内後、法皇の寵愛を受け生んだのが
崇徳天皇だという噂があり、これが後の保元の乱の一因となります。

滋賀県多賀町にある胡宮(このみや)神社に伝わる
「仏舎利相承(そうしょう)次第」という史料に基づいて、
明治時代の歴史学者・星野恒氏は「清盛の母は祇園女御の妹であり、
清盛が3歳の時に母が亡くなったため、伯母である祇園女御が清盛を
猶子(形だけの養子)として養育した」という見解を発表されました。

この文書は、白河法皇が崩御の際、中国の育王山(阿育王寺)の
雁山塔からもたらされた仏舎利(実際は水晶)2千粒を祇園女御に
形見として与え、それを女御から猶子の清盛に譲った由来を記したものです。
しかし、この史料は後世のものであり、また記述にも
不審な点があることから、真偽のほどは定かではありません。
阿育王(あいくおう)は紀元前3C頃のインドのマガダ国の
アショーカ王のことで、育王山は晋の
太康年間(280 ~289年)にアショーカ王の舎利を得て、
その塔を建てたといわれています。

高橋昌明氏は、清盛の母を祇園女御もしくは彼女の
妹とする説があるが、前者は事実でないし後者は根拠が薄いとし、
藤原為忠の娘である可能性を指摘されています。
また清盛の破格の出世が白河法皇の落胤であったことを
証明するという説が長く流布してきましたが、
それを証明する史料がなく、もし皇子であれば位争いに
巻き込まれる可能性もありますが、清盛にはそのような様子が見えず、
現在ではこれを否定する説と支持する説に分かれていて真相は謎のままです。
忠盛燈籠・祇園女御の塚  
『アクセス』
「厳島神社」京都市上京区京都御苑6
 堺町御門から御苑内に入ります。
市バス烏丸丸太町・地下鉄烏丸線丸太町駅下車 徒歩約5分
『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 高橋昌明「清盛以前」文理閣 
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 
上杉和彦「平清盛」山川出版社 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 
井上辰雄「平清盛と平家のひとびと」遊子館
櫻井陽子「90分でわかる平家物語」小学館 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社 
竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」京都新聞社 
「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂

 

 



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