平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大門坂は大門跡に向かう熊野那智大社への参詣道です。
熊野詣の人々が歩いた石畳が昔の姿のまま残り、
熊野参詣の歴史が色濃く残る古道のハイライトです。

大門坂バス停から案内板に従って古道に入ると、左手に「大坂屋旅館跡」、
赤い欄干の「振ヶ瀬橋」が見えてきます。




南方熊楠が3年間滞在した大坂屋旅館跡

南方熊楠は大坂屋旅館の離れを常宿として、
那智原生林の菌類・藻類などの採集研究をしていました。

ここからが那智山の聖域で、この橋は神域と俗界を分ける振ヶ瀬橋です。
橋を渡ると石畳と170本もの杉並木が続きます。


鏡石を過ぎるとやがて樹齢800年の夫婦杉が坂の両側に見えてきます

夫婦杉とよばれる幹周囲8.5mの2本の大杉です。

鬱蒼と茂る杉並木には、幹が祠となった大木もあります。



夫婦杉手前の大門坂茶屋では、平安衣装の貸出(1時間2千円)を行っています。

大阪から来られたという娘さんに夫婦杉をバックにモデルをお願いしました。

夫婦杉の近くには多富家王子跡」があります。
九十九王子の最後の王子社で、樹叢や峠の神仏に
「手向(たむ)け」をした
場所と考えられています。
江戸時代には社殿がありましたが、明治10年、
熊野那智大社の
境内に末社「児宮(ちごのみや)」として合祀されました。


熊野古道沿いには「九十九王子」とよばれる社が等間隔に置かれ、

奉幣・読経などの宗教行事の他、休憩地としても利用され、
時には歌会なども開かれて長い旅の疲れをほぐしました。

鎌倉積みの石段は苔むし1町ごとにたてられた小さな町石が所々に残っています。(2町)
ここから右手の小道を下りると、バス停「大門坂」があります。(2、3分)

大門跡手前にある唐戸石、そ
の上には小銭がたくさん置かれています。

大門坂を上りきると那智の滝が見えます。
熊野の自然に宿る神に会うために、やっと辿りついた
巡礼者たちはどのような思いでこの大滝を眺めたのでしょう。

かつて坂を上りつめた所には、仁王像がたつ大門があり、

通行税を徴収していましたが、今はなく那智山駐車場に出ます。
その先には土産物街があり、にぎやかな門前町の風情を漂わせています。
ここからさらに473段の石段を上ると、標高約500mの
高台にある熊野那智大社社殿に到着します。

南方熊楠は 和歌山市生まれですが、後半生を田辺で過ごしています。
毎日のように熊野の山々を歩き、植物を採集して粘菌の研究に没頭、
苔の新種を見つける大発見をしています。

明治39年「神社合祀令」が出されると、その反対運動に奔走するようになります。

そのために費やした時間とエネルギーは膨大なものでした。
「神社合祀令」とは、由緒ある神社を保護し、小さな社は1町村1社を原則として、
神社を整理統廃合する計画です。これが発令された時、熊野の森や鎮守の森も
伐採の危機に直面しました。社叢には神木としてヒノキなどの巨木が多くあり、これが
払い下げられて伐採され、利権の対象となりました。
強引に合祀が進められていく中、
熊野の森を守ったのが南方熊楠でした。

熊楠は合祀推進の官吏が来ている
県の講習会に押しかけて
家宅侵入容疑で拘束される一方で、
民俗学者の柳田國男・和歌山県知事を通じて
合祀反対のパンフレットを政官界に配布、

地元紙「牟婁(むろ)新報」にも、神社合祀反対の意見を発表し、
その主張を地元民に広めました。熊楠が展開した反対運動は
多くの支援者の支持を得て、神仏合祀令はしだいに沈静化していきました。
『アクセス』
「大門坂駐車場」JR紀伊勝浦駅又はJR那智駅から熊野交通バス20~25分
「大門坂駐車場」から「那智山駐車場」まで 徒歩約35分
『参考資料』

「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「和歌山県の地名」平凡社
産経新聞朝刊「こころ紀行・世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」 平成16年7月~11月掲載記事
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社 別冊宝島「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )