平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




岡崎黒谷町にある金戒光明寺は、黒谷さんと呼ばれ、
法然上人や熊谷直実ゆかりの寺として知られています。
方丈前に大きく枝を広げた松の木は、出家の際、
黒谷の法然上人を訪ねた熊谷直実が鎧を池の水で洗い、
掛けたという伝説に因んで鎧掛けの松と呼ばれています。
古樹は枯れ、現在の木は二代目です。


山内塔頭の一つ、蓮池院熊谷堂は、出家した直実が庵を結んだ場所で、
応安七年(1374)に長門の住人熊谷直安によって再興されました。
堂内に安置されている法然母衣(ほろ)絹の肖像は、
法然が直実と師弟の契りを結んだ記念として
法然が自ら鏡に映し、敦盛の母衣絹に描いて与えたと伝えられ、
傍には敦盛夫人像と直実自作の木像が安置されています。
すぐ近くの法然の廟所、勢至院前には、
直実と敦盛の五輪塔が向いあわせに建っています。





松の前にたつ「鎧掛けの松」の駒札と石碑



直実が鎧を洗ったという池











一の谷の
戦場でわが子と同じ年頃の敦盛に息子小次郎の姿を見た熊谷直実は、
助けようと決心しますが、背後には味方の軍勢が迫り、
やむなくその首を斬りました。
直実は、敦盛の形見を沖に浮かぶ平家の船に届けたいと、
遺骸、衣装や笛に、子細を記した書状を添えて父経盛の許に送ると、
経盛からも息子を失った悲しみと遺骸を届けてくれた感謝の気持ちを綴った
返書が直実の許に届いた。という記事が百二十句本を底本にした
新潮日本古典集成『平家物語』や『源平盛衰記』等に見えます。
それが事実かどうかはわかりませんが、事実とすれば、
思ったことをすぐに行動に移す、まっすぐな性格の直実らしい行動です。

敦盛を討たねばならなかった事に無常を感じ、それがきっかけで
直実は出家したといわれています。しかし出家したのは、
それから七、八年後のことです。実際はそうでなく、所領争いに負けて
激怒のあまりに出家したのだ。という別の説があります。
そこで、源平合戦後の直実の足跡を辿りながら、
出家の動機を探ってみましょう。

合戦後、御家人として活躍していた直実は、文治三年(1187)八月、
鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の的立(まとたて)役を命じられます。
射手からはずされたのです。ところが直実は
「御家人は皆、同輩として同列に扱うべきなのに、射手は騎馬で、
的立役は歩行というのは不平等である。」と主張し、頼朝が
こうした役目はその人の器量によって仰せつけるので、優劣は関係ないと
いくらなだめても従わなかったため、所領の一部を没収されます。
同じ御家人でありながら、射手の世話をする的立役は、
歴戦の勇者である直実にとって屈辱であり、直実の中に、
身分差別を否定する気持ちが強かったことが読み取れます。
これ以後、幕府の行事からは姿を消し、
代わって嫡男の次郎直家が参列するようになります。

合戦においても、郎党一騎を伴うにすぎない直実のような小武士は、
手柄、それと引きかえに与えられる領地を目指して命がけで戦いました。
しかし合戦のあと、先陣をきり、敵の首を取って手柄を立てた
彼らの恩賞は、大豪族に比べ微々たるものです。
畠山重忠・和田義盛などの大豪族は、率いる家来も多く、
頼朝に戦力そのものを提供し、手勢の少ない彼らとは働きが違います。

頼朝は幕府の体制を固め、身分秩序を作り上げていきます。
御家人には、「御家人は皆朋輩なり。」という理念がありましたが、
現実に存在する大御家人と中小御家人の格差。
それは、武勇よりも身分や政治的な策が幅を利かせる体制です。
新しい時代は、武から文へと転換していき、力だけでなく
朝廷とも渡り合える政治力が求められるようになります。


その五年後、建久三年(1192)に直実は、以前から所領をめぐって
確執のあった叔父の久下権守直光との間に、
領地の境界の問題が起こり、頼朝の御前で裁判がありました。
直実は筋道をたてての話というのは苦手なため、
頼朝も不審に思うことが多く、尋問は自ずと彼に集中してしまいます。
しかし自分の正当性をうまく説明できずに憤怒して
「梶原景時が直光を引き立てているため、あらかじめ直光に有利なように
お耳に入れているのではなかろうか。直実の敗訴は決まっているのも同然だ。
この上は何を申し上げても無駄なこと」と、
用意した訴訟の書類を投げ捨てて、その場で自ら髻(もとどり)を切って
姿をくらました。という記事が『吾妻鏡』に見えます。
わき目もふらずに行動する様は、『平家物語』が語る直実とよく似ています。
その後しばらくは自分の領地に引っ込んでいた直実ですが、
やがて京に上り、法然に弟子入りし、蓮生(れんせい)と名乗り、
信仰に一途な修行をしたことが法然上人の伝記
『法然上人行状絵図』などに残っています。

直実が初めて法然と面談した時、「後生を救われるにはどうしたらいいか。」と
尋ねると、法然は「ただ、念仏を唱えれば往生できる。それだけでいい。」と
答えました。その言葉を聞いて、「自分のように罪深いものは切腹するか、
手や足を切落せば、救われる事もあるのかと思っていたが、
余りのたやすさに嬉しくて泣けました。」と語っています。
法然に心酔し、常に西に背を向けず、京から東国に下る時も、西方浄土に
背を向けることはできないと、うしろ向きに馬に乗ったという逸話があります。

ある日、法然に従って直実が関白・九条兼実の屋敷に行き、法然の法話を
庭先から聞いていましたが、遠くて声がかすかにしか聞こえないので、
「この世ほど口惜しい所はない、極楽にはこんな差別などあるまいに。」と
声高に放言したという。それを聞いた兼実は、
使いをやって大床のところで聞くことを許したという
出家前と変わらない反骨精神を伺わせる話もあります。

確かに直実出家の直接的な原因は、
叔父との所領争いにあったのかもしれませんが、
我が子と同じ年頃の敦盛を討たねばならなかったことに疑問を抱き、
武士の生業(なりわい)に無常を感じながらもずっと抑えてきた感情。
そして、武芸をもって義朝(頼朝の父)、頼朝に仕えた直実は、
武勇のみで評価されない新しい体制の中に、居場所がなくなり、
出家の道を選んだとも考えられ、土地争いに敗れて
突然出家の心が芽生え、出家を決意したのではないように思われます。


クマガイソウ
熊谷次郎直実の本拠地(熊谷市の熊谷寺)     高野山熊谷寺(熊谷直実) 
   
熊谷直実(熊谷腰掛石と鉈捨藪跡)  熊谷直実(専定寺・烏寺)  熊谷直実(鳩居堂)  
 『アクセス』
「金戒光明寺」京都市左京区黒谷町121

市バス「岡崎道」下車、徒歩10分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「源平盛衰記」(5)新人物往来社

山本幸司「頼朝の天下草創」講談社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
櫻井陽子「清盛と平家物語」朝日出版社 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館
「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂

 



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コメント
 
 
 
紅葉の時期には黒谷さんにもお参りしたものですが… (yukariko)
2014-03-06 22:51:18
我が家は浄土宗で知恩院さんが本山、観光の時以外にもお骨収めなどで参ります。実家も浄土で法然さんなのです。
でも黒谷さんに法然さんの御廟所・勢至院や熊谷直実の庵跡の蓮池院熊谷堂があった事を知りませんでした。
友人たちと秋の観光でよそを廻った帰りに覗く程度でしたから、この記事を読んでびっくりしています。
また廻りたいところが増えてしまいました。
 
 
 
お堂は観光客もほとんどない静かな所にあります。 (sakura)
2014-03-07 11:29:47
ご実家が浄土宗ということは、以前にお聞きしましたが、
嫁がれた先も同じ宗派だったのですね。

法然は平家物語と同時代に生きた人です。
哲学者の梅原猛先生によると、「平家物語」は、
専修念仏の教義を物語によって普及しようとするものであるといってよい。
しかし、その思想はかならずしも純粋な専修念仏の思想ではない。
伝統的な天台仏教と調和した専修念仏の思想であるように思われる。と
「法然の哀しみ」の中で語っておられます。

 
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