平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






高松神明(しんめい)神社は、高松殿(たかまつでん)の
鎮守の社として祀られていました。
この社は白河法皇の頃には、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の
邸宅となっていましたが、鳥羽上皇はこの邸宅を買い上げて
院宮を造り、ここを御所としました。
邸宅の名は池の中島に生えていた高い松の木に由来するという。

久寿2年(1155)に後白河天皇は、高松殿で即位して
ここを里内裏とし、政務を執ったので高松内裏ともいわれました。
保元元年(1156)の
保元の乱では、 崇徳上皇方の白河北殿に対して
後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛の軍勢が
高松殿にぞくぞくと集結しました。
これは1町(121㍍)四方の邸宅で、
手狭なため軍勢が白河の地に出発した後、高松殿を離れた天皇は、
北隣にある左大臣藤原頼長の東三条院を接収し、そこに本陣を移しました。
平治元年1159)の平治の乱で、御所は焼失しますが、
高松明神は、現在も高松神明社として残っています。

なお、保元の乱で源義朝の夜襲策を取り入れ、天皇方を勝利に導いた信西の邸は、
『平治物語』によると、
姉小路西洞院(高松殿の南西あたり)に
あったと記されています。 
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  

室町時代には、神明寺宝性院という神仏習合の寺院でしたが、
明治の神仏分離によって高松神明神社と名を改めました。
鳥居の傍にたつ「此附近高松殿址」の碑

高松神明神社


東三条殿は仁安元年(1166)に焼失し、
釜座通り押小路の角に「此附近東三條殿址」の碑がたっています。



東三条殿は二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、

南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、はじめ醍醐天皇の皇子重明親王の
邸でしたが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の
女子で皇妃母后となった人が居住する慣わしとなっていた所です。
その後、邸は道長に引き継がれ、頼通の頃から藤原氏の
重要な儀式はここで
行われるようになります。
師実、師通、忠実、忠通と代々藤原氏の氏長者の
伝領でした。

忠実(ただざね)は東三条殿を一時、長男忠通に伝えますが、
久安6年(1150)、忠通を義絶して次男の頼長に与えました。
しかし、保元の乱で頼長は朝敵として滅びたので没収されています。

東三条殿想像復元図 『日本歴史館』より引用させていただきました。
『アクセス』
「東三条殿址の碑」京都市中京区押小路通釜座上松屋町 市バス「新町御池」下車2分
又は市バス「二条城前」下車5分
「高松神明神社」京都市中京区姉小路釜座東入北側 市バス「新町御池」下車2、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
「日本歴史館」(株)小学館、1993年

 

 

 
 

 

 

 

 


コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
何もかもが一緒になって時代の流れに流されてゆくのが哀れ…。 (yukariko)
2009-05-03 18:21:21
中世ヨーロッパでも皆欲望に忠実ですね。
この時代の貴族も武士も自分の出世・栄達の為には親・兄弟を押しのけることなど平気だったようで『それのどこが悪い!』と開き直っていますね。

現代人の感覚で良心や道徳などを言えば馬鹿にされるのがオチの末世。勝ち馬に乗らずに指をくわえていたら、そこで怯んでいたら、今度は自分達が追い落とされてしまう…そのいい見本!

自分の血筋を後継ぎにというより自分の勢力伸長が大事。
濃い血族なればこその、血を血で洗う壮絶な争いの幕が切って落とされました。
崇徳天皇も後白河天皇も人として見たら同情もするし、魅力もおありだったのでしょうが…何もかも巻き込んで長い騒乱の渦の中心・台風の目。

忠実・頼長親子の方は元々無理難題を吹っ掛けている気がしますが、当時の一番身分の高い人が言い出せばはたが是々非々を問うても無駄な事、あれもこれも何もかもが一緒になって時代の流れに流されてゆくのが哀れ…といえば哀れ。

自分達が引き起こしたのだから因果応報ですが、こんな人達に限って、自分の悪い所を棚に上げて人を恨むのでしょう(笑)
 
 
 
王朝の華やかな舞台の裏側は… (sakura)
2009-05-04 16:46:45
古代から奈良時代にかけての時代にも
政権をめぐっての争いは数多くありました。
平安時代になると奈良時代に勢力を伸ばした藤原氏が
より一層その勢力を広げるために他の氏族を追い落とし、
ついで藤原氏内部での勢力争いに発展します。
道長と伊周、叔父・甥で摂関の地位争いと親族内部でも抗争が繰り返されました。
政権を支配するということは魅力があるようです!
以前yukarikoさんからのコメントにも伊周について書いて頂いたように思います?
 
 
 
 ブログ見つけました。 (名古屋 俳句仲間の筒子)
2009-05-07 20:20:15
今 帰って来たところです。これから ゆっくり読ませて頂きます。写真がとてもきれいですね。 取り敢えずお礼迄。
 
 
 
早速ありがとうございます! (sakura)
2009-05-08 08:18:53
昨日はお世話おかけしました。
いい句がおできになりましたか。
私も義朝無念の地をたずね、感動も味わえましたので
少し勉強してから、後日記事にしたいと思います。
 
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