平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




白河北殿は平安時代末、白河法皇によって造営された院御所で、
鴨川東の白河南殿に対して北隣の御所を指し、その跡地は熊野神社より西、
川端通(鴨川畔)に至る丸太町通を挟んだ南北一帯の地です。
(左京区聖護院川原町・東丸太町・東竹屋町・聖護院東寺領町)
白河法皇の崩御後は、鳥羽院の御所、
その後は上西門院統子(崇徳院の同母妹)の御所、
保元の乱では崇徳院方の本拠地となり、
後白河天皇方による夜襲で全焼しました。この時、統子は
父鳥羽院の死去に際し、鳥羽殿に移りこの御所を留守にしていました。


『保元物語』によれば、保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が
鳥羽殿で崩御すると、
崇徳新院は同月10日に鳥羽田中殿より
この御所に移り、藤原頼長とはかって
軍勢を集めました。
しかし院の崩御前から準備を進めていた後白河天皇方に比べ

だいぶ出遅れた上、その軍勢は崇徳新院や摂関家に仕えていた
武士ばかりで、
源義朝・平清盛らの有力武士に加え
検非違使や衛府にも動員をかけた
後白河天皇方に比べ
明らかに見劣りのする部隊でした。

大炊御門面の東門には平忠正・多田頼兼、西門には鎮西八郎為朝が守り、
西河原面の門には六条判官為義、北の春日面の門には平家弘が固め、
軍勢は一千騎に
達しましたが、御所が広くて
どこに人がいるのか分からない位だったと記しています。


「此附近 白河北殿址」と刻まれた石碑が、
京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中に見えます。

石碑の側面には、「昭和十四年三月建之 
京都市教育会」とあります。

この付近には白河上皇の院の御所「白河北殿」がありました。

保元の乱以前◆天皇家
白河法皇が崩御すると鳥羽上皇は祖父白河との関係を噂されていた待賢門院璋子を
遠ざけて「叔父子」と噂のあった上皇の第一皇子・崇徳天皇を退位させます。

代わって美福門院得子が生んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させますが、
病弱な近衛天皇は十七歳で亡くなります。天皇に嗣子なく鳥羽上皇は崇徳新院の
皇子重仁親王ではなく、新院の弟雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。
わが子の即位を強く望む新院は後白河天皇に反発します。
◆摂関家
藤原忠実は康和元年(1099)父の急死により22歳で氏長者(藤原氏トップ)
の座に就きます。藤原氏は代々外戚となって政界を支配してきましたが、
当時は白河法皇の院政最盛期にあり、摂関家の勢力回復に努めた忠実は
保安2年(1121)法皇に罷免され、長男忠通が関白・氏長者となります。
白河法皇が崩御し鳥羽上皇が政務をとりはじめると、法皇から疎まれていた
前関白忠実・次男頼長を上皇は政界に復帰させます。
忠実は摂政の座を次男の頼長に譲るよう忠通に頼みますが断られ、
忠通から氏長者を強引に取り返し頼長に与えます。
摂政職をめぐって父子関係は悪化し忠実は長男忠通を義絶します。
近衛天皇の崩御は崇徳新院の呪詛だとか忠実・頼長が呪詛していたという
噂が乱れとび、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を完全に失い再び失脚します。

「保元の乱」
保元元年(1156)鳥羽法皇の死(7月2日)を機に皇位継承に不満を抱いていた
崇徳新院と弟の後白河天皇が対立し、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との
亀裂が絡み合って起こった戦いです。
崇徳新院方の白河北殿では新院と頼長に源為義・鎮西八郎為朝父子、
平忠正(清盛の叔父)らの武士がつき作戦会議が開かれていました。
鎮西で武勇を誇った為朝は「勝利するには夜討ちに及ぶものはない。」と主張しますが、
頼長は「それはあまりにも荒っぽい。朝になると、父忠実が手配してくれた興福寺の

僧兵千騎余がこちらに着くだろうから正々堂々と戦いをすればよい。」と主張するので、
奈良からの援軍を待って出撃ということになりました。これが大きな失敗でした。

一方の後白河天皇、関白忠通側では、手狭な高松殿から東三条殿に移り
信西、忠通の子14歳の基実、平清盛、源義朝らが軍儀を開きます。
義朝が「まず夜討ち!」を称えると、これに信西(しんぜい)が賛同し、
7月11日未明義朝、清盛、源義康の兵600騎が三手に分かれ新院方のたて籠もる
白河北殿に先制攻撃をかけ、源頼政らの200騎の軍勢がこれに続きました。
白河北殿を必死で守る為朝の奮戦も及ばず4時間半程の戦いの後、
朝廷側が勝利します。千余騎で固めていた白河北殿は炎上し、
崇徳上皇は北殿を出て三井寺に逃れようと東山の如意ヶ嶽に上りますが、
山は険しく夜に紛れて下り、紫野の知足院近くの僧坊で出家し、
弟覚性法親王のいる仁和寺に入りました。(『保元物語』)
しかし、すぐ内裏に知らされ、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに讃岐に流されます。
兵衛佐局は、法勝寺執行信縁の娘で、大蔵卿源行宗の養女です。
頼長は流れ矢を頸にうけ奈良への途中、氏寺興福寺に逃れた父忠実に
使者を送り面会を求めますが、忠実は会おうとはしません。
絶望した頼長は舌を噛み切り最期を遂げます。
負けた側の武士は捕らえられ処刑されることになりました。
源為義を子の義朝が、平忠正を甥の清盛がなどそれぞれ一族の手で、
斬首させるという厳しい措置がとられました。
「保元の乱ゆかりの地」(2)高松神明神社・東三条殿址 
保元の乱ゆかりの地(3)崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮 
『アクセス』
「白河北殿の碑」京都市左京区丸太町通東大路西入南側 京都大学熊野寮内
市バス「熊野神社」下車徒歩5分
『参考資料』
橋本治「権力の日本人」(双調平家物語ノート)中央公論新社 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂 「歴史のかたち」読売新聞大阪本社
 






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高松神明(しんめい)神社は、高松殿(たかまつでん)の
鎮守の社として祀られていました。
この社は白河法皇の頃には、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の
邸宅となっていましたが、鳥羽上皇はこの邸宅を買い上げて
院宮を造り、ここを御所としました。
邸宅の名は池の中島に生えていた高い松の木に由来するという。

久寿2年(1155)に後白河天皇は、高松殿で即位して
ここを里内裏とし、政務を執ったので高松内裏ともいわれました。
保元元年(1156)の
保元の乱では、 崇徳上皇方の白河北殿に対して
後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛の軍勢が
高松殿にぞくぞくと集結しました。
これは1町(121㍍)四方の邸宅で、
手狭なため軍勢が白河の地に出発した後、高松殿を離れた天皇は、
北隣にある左大臣藤原頼長の東三条院を接収し、そこに本陣を移しました。
平治元年1159)の平治の乱で、御所は焼失しますが、
高松明神は、現在も高松神明社として残っています。

なお、保元の乱で源義朝の夜襲策を取り入れ、天皇方を勝利に導いた信西の邸は、
『平治物語』によると、
姉小路西洞院(高松殿の南西あたり)に
あったと記されています。 
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  

室町時代には、神明寺宝性院という神仏習合の寺院でしたが、
明治の神仏分離によって高松神明神社と名を改めました。
鳥居の傍にたつ「此附近高松殿址」の碑

高松神明神社


東三条殿は仁安元年(1166)に焼失し、
釜座通り押小路の角に「此附近東三條殿址」の碑がたっています。



東三条殿は二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、

南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、はじめ醍醐天皇の皇子重明親王の
邸でしたが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の
女子で皇妃母后となった人が居住する慣わしとなっていた所です。
その後、邸は道長に引き継がれ、頼通の頃から藤原氏の
重要な儀式はここで
行われるようになります。
師実、師通、忠実、忠通と代々藤原氏の氏長者の
伝領でした。

忠実(ただざね)は東三条殿を一時、長男忠通に伝えますが、
久安6年(1150)、忠通を義絶して次男の頼長に与えました。
しかし、保元の乱で頼長は朝敵として滅びたので没収されています。

東三条殿想像復元図 『日本歴史館』より引用させていただきました。
『アクセス』
「東三条殿址の碑」京都市中京区押小路通釜座上松屋町 市バス「新町御池」下車2分
又は市バス「二条城前」下車5分
「高松神明神社」京都市中京区姉小路釜座東入北側 市バス「新町御池」下車2、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
「日本歴史館」(株)小学館、1993年

 

 

 
 

 

 

 

 


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