平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



三井寺北院・新羅善神堂は弘文天皇陵西の山側にあり、
参道はうっそうとした木々に覆われ境内はひっそりとしています。

新羅善神堂と源氏との関りは深く、源頼義は前九年合戦に出陣する際、新羅明神に戦勝を祈願し、
頼義の三男義光は新羅明神の社前で元服し新羅三郎と名のりました。


智証大師(円珍)が留学して、天安二年(858)唐から帰国の船が
暴風雨に翻弄されている最中に新羅明神が現われ、「我は新羅明神なり、
汝のため護法の神とならん」と約束したことから、三井寺北院の現在地に
860年、新羅明神を祀る祠を建てたのが起こりです。内陣須弥壇には
平安時代後期に造られた木造の新羅明神像(国宝)が安置されています。





三井寺は、比叡山との宗門対立で度々焼き打ちに遭っています。
また「平家物語」巻四(三井寺炎上の事)によると
源頼政が以仁王とともに三井寺を頼って兵を挙げ、敗北した頼政は
三井寺の別院であった平等院で自刃し、
以仁王も奈良に向かう途中で殺されます。
この報復として平家の大軍が三井寺を攻め、
金堂のみを残して由緒ある伽藍も焼きつくしてしまい、
責任者は役職を解かれ僧兵は流罪になります。
平家滅亡後、源頼朝は三井寺を源氏の氏寺として再興しました。

現在の三間社流造の代表的な建築の社殿である新羅善神堂は、
貞和三年(1347)足利尊氏によって再興され、国宝に指定されています。
もとは、新羅社・新羅明神社とよばれていましたが、
明治の神仏分離で現在の名称となりました。


新羅善神堂の南の道を上って義光の墓へ



玉垣に囲まれた義光の墓。

新羅三郎義光(1045~1127)
新羅三郎義光は、弓馬の道に優れ早くから朝廷に仕え、
左兵衛尉に任じられていましたが、
後三年の役で兄の義家が
苦戦していることを知ると勅許を得ずに奥州に下向して
勝利に導き、
嘉承元年(1106)には、近江国甲賀郡柏木郷を三井寺に
寄進しています。
義光の子義業からは佐竹家、義清から武田家が出ています。


義光は弓馬に秀でていたばかりでなく
「武芸の家に生まれたため、心ならずも、
これに従っただけである。
先祖の恥は守護神が庇護してくれる」といって

詩歌や笙を好み、その芸域は名人に達していたといいます。
笙の師豊原時元死去の際、義光は秘曲「大食調入調」を授けられ、
源義家に加勢するため奥州に下る義光が、
豊原時元の子時秋に
この秘曲を授けたという伝承があります。

(現地説明板)

源義綱(?~1132?)は、賀茂社前にて元服し賀茂二郎義綱と称します。
前九年の役では父頼義、兄義家に従って奥州に下向し活躍し、
陸奥・伊勢・甲斐・信濃等の国守を歴任します。
義家の死後、義家の子・義忠を殺したという冤罪を着せられて
佐渡へ流されその後自害します。子息五人も自害し一門は滅びました。
(この事件の背後には、義光がいたと云われています。)
 『アクセス』
「新羅善神堂」京阪電車石山線別所駅より徒歩10分。
弘文天皇陵のすぐ西側にある鳥居をくぐって進むと、道が右に折れます。
石段を上った広場の奥にあります。
「新羅三郎義光の墓」新羅善神堂鳥居の横から、
石畳の敷かれた山道を7、8分上ります。
『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社
「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館
「日本古典文学大辞典」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
「京都発見」(比叡山と本願寺)梅原猛 
「滋賀県の歴史散歩」(上)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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