平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




若宮八幡宮は五条坂の北側にあります。
もとは源頼義が下京区六条醒ヶ井にあった邸内に勧請した鎮守社でしたが、
応仁の乱後荒廃して東山に移され、大仏造営のため方広寺の北に再度移転し、
慶長十年(1605)に現在地に移されました。

祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、それに昭和24年に陶祖神・
椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が
合祀されたので陶器神社とも呼びます。
毎年8月7日~10日の5日間、若宮八幡宮社の例祭として、
氏子の陶器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開催され、
約400軒の出店が並び
賑わいます。

若宮八幡宮  当社はもと六条醒ヶ井(さめがい)にあり、
源頼義(よりよし=八幡太郎義家の父)が
八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。
  当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、
源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、
室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。
  しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし
、慶長十年(1605)この地に移った。
  現在の社殿は承応三年(1654)に再建されたもので、
本殿には仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇及び
神功(じんぐう)皇后を祀り、相殿(あいどの)には
仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。
  毎年八月七日から十日までの間には若宮祭と
その協賛行事として陶器祭が行われる。陶器祭は後に合祀された
陶祖椎根津彦命(しいねつねひこのみこと)の祭礼で、
氏子の陶磁器業者が中心となり、
五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。京都市
 





本殿玉垣内にある八角形の石造水船は、足利義満寄進と伝えられ
側面に至徳三年(1385)の銘があります。

これを江戸時代に模造したものが、現在参詣者用の手水鉢に使用されています。









旧地での創建は天喜元年(1053)、源頼義の手になり、その邸宅内、
佐女牛(さめがい)小路西洞院(下京区若宮通花屋町上ル若宮町)
にあり、
この邸で八幡太郎義家が誕生したともいわれます。

頼義の邸宅跡に建つ若宮八幡宮の石碑

源頼朝は父祖の地としてここを厚く敬い、文治元年(1185)12月
この邸宅を社地として寄進し、六條若宮八幡宮(神戸市)の造営に着手しました。
室町時代になると源氏の一族足利将軍が帰依し社地・社領も拡大し隆盛を誇ります。
楼門・廻廊・拝殿・神殿・東西経殿・神宮寺・三重塔
鐘楼などと
堂々とした構えの神社だったようです。


源義家(1039~1106)は石清水八幡宮の前で元服し、
八幡太郎義家とよばれます。
源頼義とその子義家の名を高めたのが、
前九年合戦・後三年合戦です。陸奥の国の安倍頼時が反乱を起こした際、
朝廷は河内守源頼義を陸奥守として赴任させました。
頼義・義家父子は出羽豪族清原氏の援を得てようやく乱を鎮圧、
陸奥の国に長い間君臨してきた安倍氏を制圧しました。
これが前九年合戦です。
その後、清原一族の内紛が起こり
家衡と清衡が争うと、義家はそれに介入し
苦戦の末、
清衡を勝利に導きました。これが後三年合戦です。合戦後、
清衡は実父藤原経清の藤原姓にもどり、奥州藤原氏の祖となりました。

この時、朝廷はこの合戦を私戦と見なし、義家に恩賞を与えなかったため、
義家は私財を投じて部下の功労に報います。

東国武士は感激し、「敵にすれば恐ろしいが、味方になれば心強い。朝廷に
背いても源氏に背く勿れ。」と義家は
東国の人々に言われたと伝えられています。

当時の今様にも 
♪鷲の棲む深山には なべての鳥は棲むものか

                     同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや
(鷲のすむような険しい山には、普通の鳥はいないだろうよ。源氏の武士には
優れた者が多いが、八幡太郎はとびきり強くて恐ろしいお方よ。)
とうたわれます。
こうして義家は東国での勢力と、武家の棟梁としての地位を固めていきました。

この功績により、諸国の有力農民が義家に土地を相ついで寄進し、
八幡太郎義家の代で清和源氏は最盛期を向えます。
土地の寄進により経済的基盤が拡大していくのを警戒した朝廷は、義家への
荘園寄進を禁止します。また
後三年の役から十年後の承徳二年(1098)、
義家は正四位下を賜り、
武将ではじめて院への昇殿を許されましたが、
晩年には嫡子対馬守義親が反乱を起こし、さらに三男義国が
事件を起こすなど
義家の中央官界での地位は危ういものになっていきました。

義家の死後は内紛などで一族は衰えていきますが、
義親、
為義から義朝へと続き、義朝の嫡子頼朝が鎌倉幕府を開き、
義国の子孫からは、新田氏や室町幕府を開いた足利尊氏が出てきます。
もと社があった頼義の邸跡もご覧ください。
源氏堀川館・左女牛井之碑・若宮八幡宮  
『アクセス』
「若宮八幡宮」京都市東山区五条橋東5丁目 市バス東山五条下車2、3分
五条東大路交差点の西方120m程北側
『参考資料』
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 関幸彦「東北の争乱と奥州合戦」吉川弘文館
  武士とは何だろうか「歴史を読みなおす」朝日新聞社
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館
京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂




 
 
 

 

 

 



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コメント
 
 
 
反乱を鎮めるのに12年も苦労したなら… (yukariko)
2009-04-09 14:52:30
12年もかかった泥沼のような戦いで味方の武将も無傷とは行かず沢山大事な一族や家来たちをも失った事でしょう。
共に闘った部下に対する恩賞は身銭を切っても与えたかったでしょうし、せっかく奪った砦や領土が裏切りや敗戦で敵方の物になる悔しさ、情けなさを思うと敗者に対する残虐な仕打ちも、正当化できないまでも気持ちは分かります。

今から千年近く昔、慈悲を説く宗教など無縁でしょうし、キリスト教だって神の名の下で随分ひどい事をやっていますもの。

恐れられその威光に押されて荒えびす達が従順になるなら何でもやったのではないかと…。

ものすごい苦労をして平定して戻っても貴族達にはその苦労が評価されないと実感した時、都の勢力の及ばない東国の経営に力を注ごうと誓った?

院や貴族達は義家の勢力が大きくなりすぎて自分たちの支配が及ばなくなるのを恐れ、昇殿や位を与えることで懐柔したのでしょうね。

案外源氏の内紛も院や貴族がそう仕向けていたのではないでしょうか?

「源家の太刀」が勅命で頼義に賜り義家に相伝されたこの事も…主流だった摂津源氏から河内源氏が取って替わり主流となった?

五条というのは案外行きにくい所なので写真を見せて頂けてよかったです。
 
 
 
親兄弟も平気で殺す源氏はすごい! (sakura)
2009-04-09 17:35:57
源氏の内紛は義光が義家の嫡子を殺し、義綱を落としいれ直系になりたかったのが一因のようです。
頼義の前九年合戦、義家の後三年合戦の背後には奥州に進出したい河内源氏の陰謀があったのです。
煩雑になるのを恐れて私がこの辺を詳しく書いてないのでyukarikoさんのご意見はごもっともです。

「院や貴族達は義家の勢力が大きくなりすぎて自分たちの支配が及ばなくなるのを恐れというのはあるでしょう。」
白河院は以前も見たように、藤原氏への荘園の寄進も禁止し、天皇家の財政が豊かになるよう計っていました。

「平家物語」の剣の巻・下には源家相伝の太刀の行方が書かれているので、これからも必要に応じて見ていきます。
一昨日は平治の乱のあと父とはぐれ一騎落ち延びてきた頼朝を地侍が見つけ源氏の嫡子を討ち取ろうとして
逆に源家相伝の太刀で首をはねられた。
という森山の宿(守山)に史跡をたずねてきました。


 
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