コメント
 
 
 
大将は責任を取らないといけないものですが… (yukariko)
2019-12-02 12:28:42
南都焼討の責任全部が重衡のせいだったとは強弁すぎるとは思いますが、予期せぬことが起こってしまったことを後からとやかく言っても始まらないのでしょうね
南都の僧たちも政治的圧力として頼朝に対し、高圧的だったでしょう。
でも彼にとって敗戦後、自害できずに護衛の武者に置き去りにされてただ2騎で逃げ、兄弟とも頼む乳母子に瀬戸際で置き去りにされて捕まったというのは、敗戦そのものよりも深い心の傷になったことでしょう。
この処刑がなかったとしても仏門に入るか高野山に登って隠棲するぐらいしかなかったでしょうから、彼にしたらどうなっても同じだと諦めきっていたのではないでしょうか。妻に会えば共に嘆いたとしても…。
 
 
 
物語作者は、重衡に対してきわめて同情的です (sakura)
2019-12-03 17:55:18
もちろん、重衡は東大寺・興福寺を焼き払おうと意図していたわけではありません。

「平家物語」では「夜戦になって、あまりにも暗いので、
重衡は般若寺の門前に立って、火をつけよ、と命じると、
次郎大夫友方が、楯を割って松明にして民家に火をつけたが、
折からの強風で火は瞬く間に燃え広がり東大寺や興福寺などの寺々も類焼した。」とあり、
重衡の命令の内容を曖昧にし、友方一人の身勝手な判断のように記しています。

さらに「重衡が南都を滅ぼして京都へ帰ると、入道相国ひとりだけは、
憤懣も晴れて喜ばれ云々」とあって、南都焼討の大罪を
ことさら清盛ひとりに押し付けようとしています。

一ノ谷で義経の奇襲攻撃に敗れ源氏方の武士に追われた重衡は、
味方の助け船に乗り遅れて馬を射られその上、
乳母子にまで逃げられ自害しようとしたところを捕えられました。
後白河法皇は三種の神器と重衡の身柄を交換するよう屋島の平家に院宣を下しましたが、
平家の総帥宗盛はこの交換を断り、結局、重衡は鎌倉へ送られました。

愚管抄に「南都の要求に屈した頼朝の態度に、
世間の人々は舌打ちをした。」とあるので、
当時の人々も重衡の運命に深く同情していたのでしょうね。

静かに念仏を唱えて首を討たせた重衡は、
すべてを宿命として受け入れる心の準備ができていたと思います。
 
 
 
Unknown (jikan314)
2020-02-17 12:49:37
ブログフォローしている方の本日のブログに、埼玉県の児玉に重衡の首塚があるとの事でした。
既にご存じかと思いますが、お知らせします。
拙句
梅ヶ枝に雪や降るらん令和の地
(本日福岡は雪とか)
 
 
 
情報ありがとうございました。 (sakura)
2020-02-17 16:02:18
jikanさま
埼玉県の重衡の首塚は知りませんでした。

覚一本では、梶原源太がもしやと思って射た遠矢が、
重衡の馬の後足の付け根に深々と突き刺さったとしていますが、
百二十句本(新潮日本古典集成「平家物語(下)」)によると、
須磨と播磨との国境辺りで、児玉党の庄の四郎高家が放った矢が
重衡の馬の尻の部分にあたったとしています。
このことから埼玉県児玉に重衡の首塚があるのでしょうね。
一ノ谷合戦では、児玉党・猪俣党・私市党などの武蔵七党の
面々がさして多くもない手勢を引連れて功名をめざして大活躍しました。

『高野春秋』元暦元年七月には、「木工右馬允知時が
重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」と
記載されていますが、この時、木工右馬允知時が宿泊した
三宝院にも重衡の墓があるそうです。
 
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