平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




金売吉次とともに奥州へ下る義経(牛若丸・遮那王)一行は、
日ノ岡峠を越えて山科に向かいました。
当時、粟田口から山科へ抜ける日ノ岡峠の西の街道沿いは、
松並木になっていたため松坂と呼ばれていました。
現在の
ウエスティン都ホテルから蹴上浄水場かけての三条通辺りです。

遮那王(義経)が松坂にさしかかった時、この坂を下りてきた
平家の侍、関原与市重治はじめ一党九人がすれ違いざま、
水たまりの泥水を蹴りあげ義経の衣装を汚してしまったという。
怒った義経は金売吉次が止めるのも聞かず、九人を斬り殺しました。
蹴上という地名は、この故事に由来するという伝承があります。

日ノ岡峠の東の山科寄り(現・左京区蹴上の一部)は、
もと九体(くたい)町と呼ばれていました。
斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を
安置したのが町名の由来といわれています。

九体の石仏のうち六体はなくなりましたが、三体は街道付近に残っています。

地下鉄東西線「蹴上」から三条通り沿いに東へ行くと、
日向(ひむかい)大神宮の鳥居が建っています。
鳥居をくぐり参道を上ると、左手にインクライン疎水公園が見えます。
①公園内の祠には、大きな地蔵尊が祀られています。

花入れには「義経大日如来」と刻まれた文字が読みとれます。

②日向大神宮の鳥居から山科方向へ4、5分進むと
(2007年現在クリーニング店の東隣)
「天道大日如来」と書いた提灯を架けたお堂があり、
地蔵尊と小石仏が安置されています。

③残る一体は、国道沿いの九条山バス停付近の地蔵堂に安置されています。
足元にはやはり沢山の小石仏が置かれています。



錫杖を持つ地蔵尊

かつて日ノ岡峠付近には粟田口刑場があったので、
これらの石仏は実際には、
処刑された人の菩提を弔うために
作られたものではないかともいわれています。
また、
遮那王が奥州下向の際、源家再興と旅の安全を祈願したという
出世恵比寿神社が粟田神社境内にあります。

この社はもとは三条蹴上の粟田山夷谷にありましたが、
明治2年に移されました。
粟田神社出世恵比寿神社(義経が旅の無事を祈願した社)   
義経の腰掛石・血洗池(義経強盗に襲われる)  
『アクセス』
「日向大神宮 」京都市 山科区日ノ岡一切経谷町29
地下鉄東西線「蹴上」下車徒歩12分
『参考資料』

竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 「京都市の地名」平凡社 
京都新聞社編「京都伝説の旅」河出書房
 
 


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